2010年11月22日月曜日

上田浩司氏の講演と対話《愛媛大の「エル・コチェーロ」》

熱弁をふるう上田先生
第三回の愛媛ビジネススクールの研修講演会が開かれた。広い意味での学生/若者のキャリア形成や就活にお役に立てたいとの趣旨による会合である。今回の話者は、株式会社ガイアックスのシニアディレクターとして先進的なICT部門の開発/営業を推し進めていらっしゃる上田浩司氏である。
幸い、愛媛大学校友会館の催し会場での対話集会は熱い熱気のうちに成功した。NPOアカデメイアは、地域の就業支援活動の一環として社会人基礎講座を連続開催している。大学側の理解もあって、昨年から順調に催しを続けることが出来ている。3回生が就活の波に呑み込まれつつあるので、余裕ある取組ができなかったが、盛会で幸いであった。
自己発見の講座(川崎克寛氏による)が前回緊急に差し込まれたので、厳密には今回はビジネススクールと名付けて四回目の大きな集会である。
参加学生の学部も教育、法文、理学部など多岐にわたり始めている。また、お隣の松山大学経営学部の学生さん達も「リピーター」で参加いただいている。
会冒頭のあいさつでも申し上げたが多忙ななかを沢山のかたがたにご参加いただいた。前回の自己発見セミナー同様に、NPO法人アイズの竹下さんや同法人で活動中の学生諸君も応援くださった。でもまったくはじめてというかたがたも居て、とても意外でうれしかった。
前回、自己発見の講座を長時間担当いただいた川崎克寛先生にもご参加いただいたが、じっさいは会がうまく廻るように様々なサポートをいただいた。また、大変恐縮したのだが、農学部の小田先生(ご専攻は農村-都市交流論)も時間をさいてご参加くださった。
上田氏のお話は、40分ほどだったかご自分のサラリーマン経験や弟さんとのIT系企業の立ち上げと経営など、生き方の軌跡を簡潔にたどってくださった。後半は、さあお話をうかがいましょうとおっしゃって、参会者一人づつに将来のことで悩んでいること、今抱いている夢など、それこそ自由に語ってもらい、上田先生の簡潔なコメントが与えられた。ビジネス最前線の先輩の、それでいいのだ、その問題は悩むほどのことじゃないよなど、率直なメッセージはとても心に通じあって、効果的であった。閉会の挨拶ではおもわず胸がいっぱいになってしまった。
上田先生はじめご尽力いただいた各位にお礼申し上げます。


休日の朝、静かな大学構内、向こうに奥道後の山並みが

さて、以下は先生や皆さんのお話をうかがいながらの雑感である。
確かに世の中、電子化が進んで便利にはなった。だが、スマートフォンにしてもなににしても、箱をあけてみても整然とした集積回路があるだけで、具体的な仕組みなど金輪際、ちょっと見では分からない世界になっている。私たちの時代のように、ラジオの裏側から薄いしきり板をとってみると、何本かの真空管が赤く光っていた時代とは違うのである。今のシステムだとコンデンサーもトランスも抵抗素子も全然分からなくなっている。消費者、とりわけ若者は完成した品、でき上がったシステムの上に乗っかって、ただ黙って走ることが要求される。
どこの大学に行って、単位をとって、就活をして、一部上場の企業に入り込んで、ワイシャツ・ネクタイ姿で事務を執り、安定した生計をいとなみ、美しい[あるいは格好良い]パートナーにめぐり逢い、云々。だからすべて“見えて”しまっている親御さんには次ぎに何をすべきかが、トヨタの生産ラインみたいに“予測可能で段取りされて当然”だと、なる。そこから、横にずれたり、はぐれ者になることは、かつての時代よりももっともっとしにくくなっているのだろう。
若者たちに本音のトークに入ってもらうと、果てしなく、えっと驚く沢山の若者たちの日常での疑問と隘路が目の前に披瀝される[私たちは時間の許す限り大歓迎だし、逆に生きる力までもらっている感じですが…]
大学生を当然含めて若者たちは、いそがしく立ち回っているが、実際のところ本音でかたることが許される空間やチャンスをほとんど持たないのではなかろうか。大人と下の世代が正対して話し合わないことは、弊害が大きいだろう。
何でもかんでも早くしろ、急げとせき立てられる。まだ使える携帯電話もスマートフォンに替えないとだめ。就職情報が十分に入らないから替えないと駄目だとなる(この現象は全面的ではなく、従来の機器が就活で完全に役立たないというわけではない、念のため)。ほとんどがルマーの域を出ないとしても、要するに深く考えずにわーっと流れる危険がいっぱいなのだ。にこやかな脅しが至るところで充満している。
若作りの母親が娘と腕を組んで高級店へショッピングだという。どちらが娘さんか分からない場合があったりする。年齢並みになってはいけないかの如くだ。まるで熟練し熟成することを世の中みんなが阻んでいるみたいだ(そしてその彼方に、結婚しない若者が急増し、少子高齢化がじわじわ我が国を痩せたものにしてゆく、今日ただいまちゃんとしていなきゃ、坂の上に理想郷など存在しない)。
その意味では時代遅れの真空管アンプでLPレコードを鳴らしてよろこぶ若者などもっともっと増えたっていいはずだ。スポーツに熱中し、海外を見聞し(鉄道の旅がおすすめだ)、じっくり読書の楽しみも味わい、そうして青春を謳歌し爆発して遊ぶべきだ。できれば子供たちに[人様の邪魔にならない形で]遊ぶことの面白さを一緒に味わって欲し。そう導いて欲しい。そして遊び人かと思いきや、意外や意外、しゃっきり堅い話もできるのが粋なんじゃないか。グラビア雑誌の女王みたいに清潔で格好良く聡明でさりげないなどという見掛け倒しの属性は、実生活ではフィクションなのだ。陰湿ないじめなんかという不健康なおこないは踏みつぶして、この言葉そのものが廃語になるまで現実から目を背けずがんばるべきだ。
たしかにカウンセリングとかあるし、そちらの方面の専門家のかたがたはご自身の健康を壊すほど子どもや若者たちの問題状況にもみくちゃになっている。問題は、そこまで深刻化していなくてもという広大な、膨大な若者層が現にはらんでいるプロブレマティク[あえて認識対称とすべき問題状況であり、NPOの事業展開領域の探究の意味だとこの場合は指摘させてもらいたい]が、如何に視野に入り、構造的な政策やケアの本格的な対象と化してゆくかであろう。
ある閾値[いきち、しきい/ボーダーのこと]をこえたばあいこれは大変だと大騒ぎになるが、そうではなく、まじめにしっかり学習や仕事や課題をこなしている若者たちの中に、同一世代内と異なる世代間との縦横な対話が欠如してしまっている。若者たちの現状はただ社会の現実を鏡のように映しているにすぎないのではないか。
また、問題は同じ年齢の仲間内ではあれこれこねていても、どうにもならない場合がある。だが、まじめな若者たちと成熟した大人の世代との対話もすっぽりと抜け落ちているのである。マッいいかと問題のあり方そのものを放置し、“ややこしいことには首を突っ込まない”と称して、肝心の市民的関心の深まりや個人としての熟成を放棄する向きもある。高等教育機関にいる大学生がである。そうした人々が子どもを持ち、学校のご父兄になると歯車は一挙に食い違ってくる。教育機関は単なるサービス機関ではない。教育機関に過剰な費用対効果感覚を持ち込むと、モンスターペアレンツとこれに押しつぶされる先生方の構図が浮かぶのである。肝心の子供たちは過度の競争の中に放り出されっぱなしなのだ。
問題が自己の中で封じ込められて、ひろやかな社会的歴史的地域的家庭的な智恵の洗礼をうけないままに無機的に放置されてゆく。人間本来の集団性のなかで「個」の個性は、こなされもまれ接触し、良き意味で社会的に洗練された感性と知性になってゆくことが望ましいだろう。個性はかくて成長する。問題の大きさと諸問題の相互関係がクールにしっかりと把握されるべきだ。知性が智恵にならなければならない瞬間だ。
最近は就活にも親御さんが手伝って、職種の開拓などデータの読み取りを学生さんと一緒に母親がおこなう例があるという。大企業の入社式に親御さん方の出席希望が強いという。この場合、現象だけをとらまえて揶揄(やゆ)することは簡単だが、根源的に問題に向かい合うことにはなるまい。過保護とエゴの暴走に、自律と連帯のおとなの論理を対置すべきだ。
即戦力とは企業の決まり文句だし、そのつどニュアンスのこもった意味ではあっても便利なのでついこちらもそう云ってしまう。しかし、本当に自信のある企業ならそんなことは声高にいう必要がないのではないか。あるいは、先輩の社員諸氏が、新入の社員がそんなに簡単に即戦力であっては、何のために自分は苦労してきたかと、なるだろう。即戦力とはだからほどほどに現実的に理解しなければ飛んでもない誤解のもとになる。
アトム化した学生や若者たちに豊かで寛容な集団性と強靭な自律性を取り戻さなければならない。責任ある自由主義と言い換えてもいいだろう。そのためのお手伝いが、わたしたちNPOの使命なのだ。もちろん私たちが厳密解を手にしているわけではない。肝心なのは、そのつど近似解を割り出しつつ、共に学ぶことである。横に不幸な友人がいた時、ワタシも不幸でああり、幸せだとは断じて言えないということを肝に銘じたい。
 上田先生のお話に触発されて書いてみたが、話しが拡散し、焦点が結べてない。おもわず書きなぐってしまった。また事務局の学生さんには、文章が長すぎるとおこられそうだ。
 以上が研修講演会の感想です。
学内からまっすぐ北へ、一草庵方面を望む。
山頭火が没した地である



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