2011年3月6日日曜日

見えない就活

就職活動への支援が本格化している。
エントリーシートの文案とか面接の場合の要点など、学生の皆さんからの問い合わせが多い。
NPOの趣旨に沿った支援をおこなうよう心がけている。
さて、情報公開/透明性といっても人間が人間を選り分けるのであり、企業の論理と大学側や求人側の論理は大幅に食い違う。
企業としてもやたらに選考過程を露出するわけにも行かない。
結局、大規模ネット利用の横並びリクルート(もっと悪くいえばワンクリック登録)では、個性の見えない何万通かの文書の前で関係者は疲れ切るだけ。万が一内々定が出たとしても、就活生は簡単にキャンセルしてくる。そこには乾いた利害意識や幼い嗜好しか存在しないのだ。
だから、最近は先祖返りし始める企業が増えているそうで、デジタル採用の限界を指摘する向きも多いという。代わってリクルーター制や教授推薦が復活しつつあるとのこと[朝日新聞、2月28日付け、シューカツの記事より]。
文系のどの辺にまでこの教授推薦制やリクルーターの射程距離が及んでいるかはまだ実感がないが、文系/理系混在の集団討論の場面で不審な事実を目撃した学生も少なくない。
討論でほとんど見るべき意見をプレゼンしていなかった特定の就活生に対して、「リクルーター」なる若手社員複数が褒めちぎり、内々定[これも変な言葉だ]が前提になっている言い方をしたという。おめでたい事ではあるが、理系中心の教授推薦がおもわず集団討論の場でばれてしまったということかも。理系の特殊技術や知見が集団討論のノウハウとは次元の違う世界であることも示している。むっつり屋の「エジソン」君や「ワトソン」君[ベルが電話の原理にたどり着いた時、隣室の助手に「ワトソン君、聞こえますか?」と世界初の伝送に成功したという]が居たとしても不思議ではない。
だが、ならば「アナログ採用」をマスゲームみたいな集団討論の場に敢えてさらす必要ははたしてあったのだろうか。
つまり、金融部門でも情報通信や自動車でも何でも、理系と文系とを十羽ひとからげにすることは、感心しない。
文系学生の自由な発想は、システムの上に立って製品を組み立ててゆく理系のスペシャリストと協働してこそ大きな貢献ができる。文系/理系それぞれに個性と特性を尊重したひとさがしが望ましい。ひろく人材を募集するということに情報通信技術が動員されることは避けがたい。それは一重にフェアな就職活動を学生達もそのご父兄もそして教育機関の側も望んでいるからにほかならない。
しかしそれが、形だけの公開性や透明性に通じるのなら、いずれにせよ公共性を重んじる企業の名を損ねるであろう。
推薦などでの優秀な人材の確保は悪い事ではない。だが、その人材を型通りのリクルートのシステムにのせて、あたかも沢山のなかから選ばれたと「演出」する必要はないのではないか。それより内々定を与えた学生や院生には更に高等教育機関での深い勉強をさせるべきである。そうでなければ、アナログ採用[とは言え、しっかりした内部選考が前提だが]に回帰した意味がない。
さて、一見オープンな外観を示している就活は実は個々の学生を孤立させ、遠方への説明会に参加するために疲弊させてしまっている。人材養成に欠かせない、大学や大学院での中・後期の専門訓練が阻害されることは、長い眼でみれば国益までそこねていることになる。
リクルーターや教授推薦復活の事情は分からないではないが、それほどブランド品=有名大学の出身ではないが、精査してみれば隠れた逸材はじつは沢山居るねえという境界線上での人材探しの努力は必要であろう。先輩が活躍している、だからその社員の出身大学から何人という発想では学閥の弊害はより増してしまう。
いかに能率良く、いかにしっかりと人材を把握するかだ。その観点から漫然と繰り広げられてきた説明会とエントリーシートの方式を抜本的に見直す時期に来ていると思う。
企業側は思いきって学生や大学教員の参加のもとに新しい就業希望者募集のシステムを策定してみてはいかがであろう?

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