2010年3月31日水曜日

雨とともに月末に

風邪気味である。薬をのんでなるべく安静にしている。咽の痛みがとれない。
朝、大学の構内に入ろうとするところでモモの花が咲いているのに気付く。
大変に色々のことがあった3月の年度末であったが、無事終了したようだ。次の年度が明日から始まる。
夕刻トゥルゲーネフ『貴族の巣』(小沼文彦訳が岩波文庫で復刊された)を読み始める。ベートーベンの弦楽五重奏曲も鳴らしてみた。パソコンにつないだ小装置でごく小さく鳴らす。スークとスメタナ弦楽四重奏団との名演が心にしみる。恥ずかしながらこの五重奏曲をこんなにまじめに全曲通して聴いたことはなかった。
さて、小沼訳は旧漢字を使っているので、かえって優雅な印象である。写真版なのであろうか、もとの活字がだいぶ消耗しているのまで読み取れる。このロシアの大家の物語りづくりにあたっての姿勢にしきりに共鳴する。『猟人日記』の文庫判が見つからなくて気になっている。絶版かも知れぬ。

2010年3月30日火曜日

早春の悪天候でした

春先は天候不順というけれど、今回はひどかった。ほとんど一ヶ月にわたって不安定な天候が続き、何より気温が低く、かつ頻繁に強風が吹き荒れる日々であった。
ようやく晴れ間が見えるようになったが、まだ気温は低いままである。
それでもどうにか正門前の桜もちらほら咲きはじめた。
校友会館が建設され、南加記念講堂も改装された。南加記念とは新制大学発足の直後に愛媛大学の設備があまりにも貧弱だというので、南カリフォルニア在住愛媛県人会の方々によって寄贈された建物をもとに改装されたというものだ。かつては内部も単なる板張りで、痛みが激しく、最終的には演劇の練習や卓球部の練習に使われていたのだった。幸い、取り壊さずれずに上手に改装がほどこされた。
戦後の経済復興と教育にかけた人々の情熱が伝わってくる。外装はもちろん内部もまさしく徹底的に改装され、250名収容のモダンなホールに生まれ変わった。音楽会や演劇公演や学術講演に最適である。
校友会館の中はまだよく見ていない。

2010年3月25日木曜日

遍路と巡礼(3)

フランス人の生活習慣の変容---宗教的な巡礼から健康志向のトレッキングへ

 
 上に触れたように、フランスでも巡礼という行為は中世以来の宗教的な行い[i]から、徐々に意味変容してきた。第一に、宗教的な信条にかかわりなく、健康志向や知らない土地に行ってみたいというエクゾティスムから若者の参加が増えている。コンポステラへの巡礼者の数は増大している。1999年には10万人が到着し、2004年にはそれが20万人に増大したという。徒歩、自転車、時に馬による巡礼という。第二に、したがって、小道の整備のおいては、巡礼というよりも、行政的な表看板としてトレッキング道として整備される傾向があるということである[ii]
 EUレベルでは、欧州大トレッキングルートSentier européen de grande randonnéeとして11の大横断・縦断のルートが整備されている。そのうち、E3ルートが、ブルガリア、ルーマニア、ハンガリー、スロヴァキア、ポーランド、チェコ、ドイツ、リュクセンブルク、ベルギー、フランス、スペインという最終的にはコンポステラ巡礼道に重なりあいつつ欧州を弓なりに横断するルートとして設定されている。E3ルートの全長は6300キロに及ぶ。

 もちろん、フランスでの状況を申せば、毎日曜日に礼拝にカトリック教会に通う人々の数が激減している。プラクティシアン[宗教的祭祀に参加し実行するひと]が急激にフランス社会のなかでマイノリティー化しつつある。80年代の留学時代、日本人カトリック会のバス旅行で廃虚になってしまい普通は入れないような中世の修道院なども詳しくまわることが出来た。主要都市であろうと小さな村であろうともカテドラル[シャペル]では日曜日には礼拝が行われている。しかし、歴史的に由緒ある立派な聖堂の中に入ってみると、前列2列にだけ礼拝の信者さんがいたことが、今でも脳裏に焼き付いている。種々の統計を総合しているネット情報を見れば、フランス人の大体60%がカトリック信者と答え、そのうち5%が日曜ごとに教会での礼拝に参加しているのに過ぎないという。無宗教との答えは、27%程度である[iii]。死者を弔う儀式の場としてのみ利用され、ふだんはカトリック教会組織は敬遠され神棚に祭られるという事実がある。宗教から健康と環境という新しいシンボルへの人々の移動がグローバリズムのなかで一般化していて、その点、保守的に見えるフランスでも事態はかわらない[iv]
 
 *サンジェルマン・デプレ教会(2009年1月取材、以下コメントのない映像は同時期のもの)。手前舗道上のデコボコは現代アートのオブジェで, 80年代当時にはもちろんなかった。

留学先はパリの政治学院IEP(シアンス・ポ)であったが、サンジェルマン・デプレ教会から5分ほどのところである。偶然にも門前町の教育機関に通っていたことになる。第三共和制から続くエリートの殿堂みたいなところで、そこから研究者への道を選んだり、国立行政学院ENAに進学して、高級官僚・外交官への道を選ぶ人もいる。当時の主流は行政学や政治学であったが、現在では改組が進んでいて、アメリカ流にビジネススクール化しているという。もちろん往時の教養主義的な、あるいは文人支配の気分が残っている政治学院を懐かしむ人もいる。われわれの精神生活に巨大な石材による伝統ある寺院は大きな影響を与えていた。セミナーのフランス人院生の仲間と話していても、古い街区に住んでいるものはそれを誇りにしている風だった。

パリ:巡礼の出発拠点
 
 フランスの巡礼路は、ヴェズレイVézelay(ブルゴーニュの教会都市)[v]からの中部フランス経由のルートやル・ピュイLe PuyやアルルArlesからの南部ルートが有名だが、それと並んで、パリからの巡礼路を忘れてはならないであろう[vi]。サンチャゴに至る巡礼路は基本的にフランスの宗教的な拠点を出発点にしているが、外国人の巡礼者のなかでフランス人が多かったことは想像に難くない。したがってこれらルートが、「フランス人の道」と呼ばれたことも納得ゆくことである[vii]
 はじめに触れたように、シテ島とサンルイ島を中心にパリができ上がった。だからこの辺がパリ一区から四区の中心部である。シテ島の北側に、パリ市庁舎とサンジャックの塔がある。この塔は、もともと16世紀の教会Saint-Jacques-de-la-Boucherieの鐘つきの塔であった。古記録によれば、シャルルマーニュ大帝[8-9世紀初頭に王位]がそもそもこの教会の基礎を据えたとある。しかしもちろんその頃ならロマネスクだから現在は何の痕跡もない。
 この鐘つき堂としての塔は、1509年から1523年にかけて、ジャン・ドゥ・フェランJean de Felin, ジュリアン・メナールJulien Ménard, ジャン・ドゥ・ルヴィエJean de Revierによって創建された。塔上に福音のシンボルとしての立像[ライオン、牡牛、鷲、それにひと]と共に、ひとつの聖ジャック像が立てられる。ここからはるかスペインのコンポステラに向けて巡礼の旅が始まる。巡礼はここからパリ南部に向けて出立したのである。教会は1793年の大革命期に破壊され、塔のみ残る。その後は気象台などとして使われた。パスカルが空気圧の実験をしたとしてそれはそれで著名である。塔はたいまつを意味する火炎が立ち上がったゴチック建築であり、もとの教会の遺構がそこだけ残ったのである。
 19世紀の半ばに解体修理され、大革命で破壊されたサン・ジャックの立像が付け加えられた。
 1965年、スペイン政府からコンポステラ巡礼への出発点とみとめる銘板がパリ市に贈られた。
 1998の巡礼道にかかわる他の70の建造物とともに世界遺産に登録されている。
                *サンジェルマン教会裏の古い小路。

私たちのパリでの巡礼道の調査はまだ詳細には渡っていない。確実なのは、このサンジャックの塔から真南に向かって、オルレアン門にくだり、そうして、パリを出るとオルレアンに向かうのである。しかし、新式のまっすぐの街路を昔の巡礼が歩んだとは考えられない。古い裏道にヒントがありそうだ。
           *サンジャックの塔。2009年1月に撮影。極寒であった。
 
パリの街区はオスマン男爵によって第二帝政期に大幅な市街区の整理[場合によっては打ち壊し]が行われ、今日見るような主要道路の拡幅と広場に向かっての放射状の道路体系ができ上がる。だが、注意深く観察すると、大幹線道路の傍に古い街区が残っている。このうねうねと曲がりくねった狭い道をただ一点の星である、コンポステラに向かって歩んだのであろう。  

          *セーヌ河岸から坂を登るとソルボンヌ・パリ第一大学に出る。

今回は、 サンジャックの塔からパリ市庁舎に行く。冬だったので、西正面にスケートリンクを敷設して、ガラス張りにレストハウスを造っていた。パリ市も商売がうまい。ネオルネサンス様式で1533年の創設という。その後は革命の嵐に翻弄される。常に政争の場として登場する。ついに1871524日のパリ・コミューンの最後とともに焼失。第三共和制期に再建される。留学中にフランス人に誘われてコンサートがあるというので入ったことがあるが、インテリアは優雅な古色を備えた立派な建物だった。維持に大変だろうなという印象を得た。日本の若い女性(ほとんどまだ少女の印象)がフルートのコンペでグランプリを得て、記念に演奏した。か細いが澄んだ音だった。パリは音楽家の街でもある。街頭で演奏する人々も多い。中には地下鉄に乗り込んできていきなり南米のリズムが車内にあふれかえることもある。小銭を市民は投じている。駅内での演奏も最近は余り見かけない。季節差があるのだろうか。
         *ノートルダム寺院の華麗なバラ窓。

 先ほどのべたノートルダム大聖堂に入る。
 つぎにサンジェルマン教会である。こちらが最古のパリの修道教会である。すべてのカトリック信仰はこの地味なロマネスクの色合いの濃い教会修道院から始まった。廻りは、広大な荘園だったという。サンジェルマン教会から南下して、サンシュルピス修道院を経てモンパルナスへ、更にやや東に寄りつつ南下すると、パリ市内の環状道路に突き当たる。大きな通りでこの辺をブルバール・ジュールダンBoulevard Jourdanという。最近、市内電車の効用が見直されて、パリ市も敷設し始めた。いま歩いてみると、アレジアやオルレアン門やそこから自分たちの居住区まで随分距離があるので驚く。まだ若かったし、熱に浮かされるように留学生活を送ったことが想い出される。
 パリからオルレアンに向かうのがオルレアン街道であり、パリからの出口のひとつがオルレアン門である。
 19世紀までは意味をもっていたパリを囲む城壁も意味を失い、とくに1930年代の大戦間時代には時の反戦的国際世論を反映してロックフェラー一族の音頭によって国際大学都市Cité Internationale Universitaire de Parisが建設される。とりわけ、80年代初頭にその西端の建物に住んでいただけにオルレアン門周辺は生活圏としても思い出が深い。パリ解放のルクレール将軍率いる軍隊がこの門からパリ市内に殺到したという。留学中にパリ解放の40周年に行き当たったので、街路に立って往年の軍用車両が記念のパレードをしているのを間近にみた。かなりお歳を召された方々が、解放当時を懐かしんでであろうか、熱狂的に廻りのアパルトマンから出てきて手を振っていた。

 *パリ14区、オルレアン門付近のアパルトマン、工事は路面電車敷設のもの(2006年調査)

画像で、まずオルレアン門周辺の街区を見ておいていただきたい。特に赤いレンガに注目していただきたい。膨大なパリ守備の城壁は取り壊され、市民公営アパートに転換された。この建造物の外壁にかつての城壁が記念に素材として廃物利用されていて、一定のデザインともなっている。ちなみに、ヴォージュ広場を除いて、パリにはこの式のアパルトマンを除き他にはほとんどレンガ造り[レンガ意匠]の建物はない。レンガを多用したバラ色の南都トゥルーズとは大きな景観上の差となっている[viii]

あとがき

         *パリ市庁舎。前庭にスケートリンクが設けられていた。

 200812月初頭に、愛媛大学では日仏修好の150周年を記念する国際シンポジウムが催された。はるばる招きに応じて友人達もフランスからもかけつけてくれた。ブルゴーニュ大学、政治学院関係の法律政治系の先生方や国立統計経済研究所INSEEの方たちと共に、国際交流を満喫できるとても愉快な一週間だった。大変にハードな仕事だったが、松山という地域や愛媛大学を押し出すことが出来て、意義深い催しであったと考えている。さて、その直後の20091月にフランスでの遍路と巡礼の調査旅行であった。極寒のなかでの調査行であり、しばしばカフェで暖をとらねばならなかった。
 パリに到着の翌日はランスへTGVで直行した。
 最後にランスのことだけを簡単にご報告しておこう。良く知られている通り、シャンパーニュ地方の首都(人口20万)であり、ランスの大聖堂(現存のゴチック建造物は13~15世紀)によって世界に知られている。この都市はやはり広義の巡礼経路に含めるべきである。ルクセンブルグなどから西南に下って、やがてパリに至る東や北の国々からサンチャゴに至る巡礼の経路として重要拠点である。風格ある北のカトリック教会を有し、他を威圧して大きい。第一次大戦における空爆の犠牲となった歴史的な構築物であり、いまだに修復の作業が続く。
 非宗教性を国是とするフランスが、もっとも熱心なカトリック遺構の守護者となっている。

 
 *シテ島とサンルイ島をむすぶのがサンルイ橋である。音楽家がジャズを奏でていた(2003年12月取材)。


[i] Denise Péricard-Méa, Les Pèlerinages au moyen age, Gisserot, 2002. 同書によれば、今日の「巡礼 pèlerinage」という語は、本来は、「行列をなして行進することprocession」とかつては同義であったという(p.11)。Perlin巡礼者の原義は、「国外逃亡者」、「他の土地に行くもの」であったという。
関哲行はいう。「自らの意思でさまざまな霊場を巡拝しつつ聖地をめざす巡礼者にとって、巡励行は日常的生活圏を離脱し、聖遺物の横溢した「聖なる空間」すなわち「異界」へ参入すること、別言すれば物的世界の保護を離れた「異邦人peregrinus, 「神の貧民」となることを意味した。巡礼者のもつ半俗半聖の身分、…。イエスの苦難の道の追体験でもあったこうした「信仰の旅」を基本としながらも、サンティアゴ巡礼にはつねに余暇(観光)の要素が付着していた。…内面的「純化の旅」との定義は一面的である。むしろそれは信仰と余暇の両義性において、捉えられねばならない。」(「中世のサンティアゴ巡礼と民衆信仰」、『巡礼と民衆信仰:地中海世界史4』、歴史学界研究会編、青木書店、1999年、pp.135-136
[ii] 軽快な現代的なトレッキングガイドとして、以下を参照。
Jean-Yves Grégoire et al.,Le Chimin de Vézelay, Rando éditions, 2004;  Topo-Guide, Sentier vers Saint-Jacques-de-Compostelle via Vézelay, 2004.
 併せて以下を参照。水谷チセ子『フランスの田舎道:巡礼の道をたずねて』、文藝書房、1998年。日本人による紀行文として息遣いの良さが好感をよぶ作品である。
[iii] "Religion en France", in Wikipédia: L'encyclopédie libre. 統計参照はこのインターネットの万有辞典によった。
[iv] もちろん、良く知られているように、フランスは植民地主義の負の遺産にも悩まされている。カトリック教会の教義に十分な理解を示さず、また、それ故にというべきか、大革命の原理をも相対化しようとするエスニシティ集団が増えている。イスラームの教えを護る人々である。矛盾は共和制の下に於ける非宗教性原理を堅く守ろうとする公教育の場での「スカーフ論争」となって顕れる。内藤正典、阪口正二郎編著『人の法vs.神の法:スカーフ論争からみる西欧とイスラームの断層』日本評論社、2007
[v] 本格的な仏文の史書として、Bernard Pujo, Histoire de Vézelay, Perrin, 2000. 冒頭に言う。「マドレーヌ寺院の鐘は旅人を導き、その音は彼方より聞こえる。それがどの方向からであっても。旅人はまるで魔法にかかったかのごとく引き寄せられる。」(同書、p.7
   Édith de La Héronnière, Vézelay: L'esprit du lieu, Petite bibliothèque Payot, 2006.
 Jaques d'Arès (ed.), Vézelay et saint Bernard, Dervy, 2002. 本書は、聖地巡礼の出発点であるとともに、第二次十字軍の進発点であったこの丘の上の聖地を多面的に読み解いている。
[vi] コンポステラへの巡礼路は狭義には、これら四都市からピレネー越えでスペイン北部をたどることになっている。しかし、イタリア、ベルギー、ドイツ等のその他の国々からの巡路も広義には含める場合がある。特に、ランスの場合は、トリール、ルクセンブルグなどからパリへの重要通過点である。
[vii] 関哲行『スペイン巡礼史:「地の果ての聖地」を辿る』講談社現代新書、p.113以下。
[viii] パリ全体の街区や眺望を論じる上で、以下は常に変わらぬリファレンスである。
Yann et Anne Arthus-Bertrand, Paris vu du ciel, Chêne, 1990;  Paris: Atlas par arrondissements, Michelin, éditions des voyages, 2003;  Le Guide Vert: Paris, Michelin, éditions des voyages, 2003( もちろんパリに市街電車が導入されて以来、共に新版に買い替えなければならない時期だが…).

2010年3月23日火曜日

旅する若者へ:慌てず地に足をふまえよ


あすは大学の卒業式だという。
多くの若者が就学や就職のため大都市に出てゆく。
小さい頃から家庭に守られ、育てられて、教育を受け、やがて巣立ってゆく。時の流れだ。
これから嵐に出会うかもしれないし、絶望に打ちひしがれるかも。しかし、自分はこうなろう、こういう仕事がしてみたい、こういう人々に出会いたいという願いを捨てるな。飛び立つものも、準備中の者も、困難な経済状況のなかで苦労だと思う。しかし、決してあわてるな。大器は晩成に決まっている。促成栽培はそれだけのモノでしかない。
機会は絶望[絶望のなかでの必死の努力というべきか]の中からじわりと近づいてくることが往々にしてある。いや、そうに決まっている。堅気の信条だけは捨ててはならぬ。

新大阪までしかJR四国さんの企画切符は効かない。松山は孤立した大都市である。そこでここから京都方面にもちろん鉄道で向かう時は、新大阪で一旦、在来線に乗り換えとなる。

懐かしい大阪の街。
自分はついにこの大都市において定職に就く機会を得られなかった。
途中下車も得るものはある。特に、新大阪の京都寄りのホームに立っていると、かなたに貨物列車の堂々たる車列が通過する。また、すぐ横は、関西の拠点らしく、珍しい特急列車の陳列場みたいに出入りがある。

つくずく、苦しかった若い頃を思い出す[いまでも生きることに苦痛を覚えてはいるけれど…]。また沢山な人々のことを想起する。

途中下車もいいことなのかも知れない。人生論的にそう思う。

2010年3月18日木曜日

就業・起業準備はじめのはじめ:筆記用具(3)

さていよいよ本丸のボールペンである。
そんなに高級なのはいらない。何といったか、金ぴかアメリカンの高価なのをもっていても、どこかに忘れやせぬかと気になって仕事にならない。まあまあのモノをもつことだろう。
ただ、百円内外の使い捨てというプラスチック文明にはやや批判的にならざるを得ない。自身を振返っても、使い切らずにいい加減に机のなかに放り込んでいる満身プラスチックの筆記用具がいっぱいある。結局、その点でも無駄をしている。
やはり、がっちりした作りのステットラーのシャープにならって、愛用のボールペンを持ちたい。
古くなったエクシールなにがし(すり減って製品名が良く見えない)の水性ボールの替え芯を入れることにした(MITSUBISHIのUBR-300である)。しかしこれはリタイア寸前で、最初から二軍扱い。また、この際、古いのが余りにも手にフィットしないので、メインに使えるものはなにかないのかと物色する。航空機のキャビンでは気圧差があり時にペン類はトラブルの元になる。そこでそうした悪条件に耐えるというのにしようかと思ったら、これは残念ながら一体的な製品で、リフィルをつけかえというコンセプトではなかった。気密構造だろうから、それはそうだろうなと、妙に時間が経ってから納得。
幸いSS-1003EXという金属製の常識的なホルダーを見つけた。1000円ちょっとであった。
替え芯は上記のものと違い、細身のもので、装着はキャップをとり、ネジ式の固定である。そうすれば、もちろん取り換えがきく。
さきほど、大学生協の方から届いたので、喜んでふたつとも現役兵として就役させる。
とにかく、勤勉に日程手帳に時間が許す限りこまかく、日程とともに覚えを書き込む。なにかのタスクが終了した時は、感想なり、今後の課題なりを中間的に総括しておく。これは意外にもあとから日程表など裏付け文書を出せなど云われたとき、例えばNPOと公共機関とのやりとりや何かの際に非常に役立つ。しかし総括としても、余り長々と書くことはしていない。精々、三行程度だ。ちなみに手帳というのも研究者人生のなかで悩まされたアイテムであるが、これには別に詳しく論じよう。最低のデータだけここでは書いておこう。すったもんだの揚げ句、ページあたりA5サイズの日程が左ページ、罫線が引かれた自由書き込みが右ページという風に落ち着いている。
だから書き込むといっても、その日のことで感想など長々書けない構造である。委員会や講演など、じっくり聴いて書くとなれば、別のノート類を用意するから問題ない。
就職希望者は軽くて簡便で十分な筆記の用具を用意すべきだろう。それもおのおのの機能につき最低は二本づつ携帯する用心深さが必要。
あたらしいMITSUBISHIのシャープはキャップを外すというのではなく、上部のノブを回せば芯が出てくる構造であり、活動的だ。なにより値段の割に高級感があり、このメーカーの誇りみたいなものも感じられる。この手の製品としては出色だろう。
あいにく他社の製品には思い及ばなかったが、なかでも水性ボールペンは業界でも激戦区だろう。しかし、くれぐれも資源の浪費には歯止めをかけたいものである。
今後はこの新顔を中心に水性ボールも使い倒そうと思っている。
*転がってしまってノブの部分が撮りにくいのでチョコで支えた。

2010年3月15日月曜日

地域活性化フォーラム:木村秋則氏の講演ほか

愛媛大学農学部の小田清隆先生にお誘いをいただいて上記の催しに参加した。
朝10時から、農産漁村地域マネジメント特別コースやリーダー養成プログラム、地域インターンシップや社会人学び直しプログラムなど多彩な社会人受講生や学部の学生さんたちの報告が続いた。
いずれも一生懸命であったし、好感をもった。
社会人の方々が積極的に参加されていて、川原さんの「ハート瀬戸田 未来計画書」など、営農を基盤にしながら連携の幅を広げ、自らが基盤としている地域の良さを再発見し、それを広く人々の共有財にするという意図がよく分かった。
ご関係の地域のお仲間も沢山応援に参加されていて、一種の祭典[フェスティバル]の雰囲気がもりあがり、感動した。
さて、次第に多くのかたがたが集まってきて、午後の第二部冒頭の木村秋則氏による「リンゴがおしえてくれたこと」という講演には立錐の余地無いほどになった。第二会場にまわった方々もかなりあったろう。
木村氏は営農に関しては確固たる方針をもっており、これはいろいろと専門的な見地からは議論があるであろう。
昼食後の眠い時間ですね、人間眠い時には眠った方が良い、こうして遠隔地の皆さんにただいまこのようにお話しできるのは大変嬉しい。家族とリンゴの木のお陰です。わたしはその頑張りの助けをしたに過ぎないという、柔らかい人間的な冒頭のことばであった。なぜかこの木村氏の言葉に強く共感したし、心底ホッとするものを感じた。そのため講演全体も、たいへんリラックスして聞かせていただいた。
シンポジウムまでは所用で参加できなかったが、空前の参加者をこのフォーラムは集めたという(600名)。
食を中心に強い関心が人々の間におこっている。
改善と智恵の集約と実践の積み重ねが強く要請されるであろう。目立たない日ごろの海、山、圃場や教育機関での活動が、こうした集いの成功を支えている。
小田先生はじめ関係者のみなさんの会場運営上のご奮闘にまたなにより敬意を表したい。

2010年3月13日土曜日

参っている時どうする

一時期、がむしゃらに翻訳し、論文を書いた。一冊のささやかな著作を出すことが出来た。
しかし、あまり幸福感を覚えない。達成感がそれほどない。贅沢な悩みだとおしかりを受けるだろうが、事実だからしかたない。
その後、現状分析に必要だろうと別の政府報告書を訳読しつつある。困難だが、仕事をしているというなにがしかの手応えがある。これが今の救いだ。
それにしてもこの心のうちの暗さは、なんなのだろうか。
京都に泊まっていた。悪天候だった。しかし、街区の閑散ぶりにはより一層、驚いてしまった。土曜日の朝9時半、バスの経路の加減で、千本中立売りでおりてから堀川通りに向かって東に歩く。中立売の通りにほとんど人影はなかった。これは現在暮らしている松山の住宅街を歩いても、そうなのだろう。なにも京都に限ったことではないのかも知れないが…。しかし、地域の疲弊ということからながめると、首都圏への過剰集中ということの裏返しで、全国的にとんでもない状態なのではないか。関西とても例外ではなさそうだ。
良く手入れされた京町屋の角に、聚楽第(じゅらくのてい)跡だという石碑を見いだした。ここから北西にかけて広壮な太閤の構築物が打ち並んで居たのだろう。つわものどもが夢の跡だ。
この日はうっかりしていてカメラを持参していなかった。小雨のなかだったが辻ごとに特有の情緒がある。
堀川通をこんどはしばらく南に向かう。
大通りに面した小商店はバスの窓から見慣れた光景だが、実際にこのへんを歩いてみたのは初めてである。ご老人がとても多かった。母が生まれたのは三条堀川であるから、ここよりもう少し南である。
早々に戻って、こんどは首尾よくバスをつかまえて帰った。
悪天候は今日まで続いている。
さて、週末の疲れを癒そうと音楽を聴こうとした。アイチューンのお陰で簡単に小さな卓上音楽会が楽しめるのはいいが、元のCDを仕入れた頃の生活ぶりだとか、あるいは亡くなった人々までしきりに思い出されて、苦痛になって止めた。ベートーベンもバッハも聴く側が気力がないとどうもいけない。逆に言えば、相当の圧力をもった曲ばかりなのだろう。いかな名曲も聴く側の受容する姿勢がなければ、押しつけがましい、しつこいものとなるのであろう。これは教育の場でも重要なモメントかもしれない。
実際、精神的にひどく疲れている。
純粋に打ち掛かる相手=原文がある翻訳など、精神的に癒しの効果があるのだろう。横文字を解読しているときだけ、なにがしか一生懸命な自分が感じられる。
散歩も必要かもしれない。
目的なしにただただ歩くということである。
さて、さらに参っている時どうする?
*高瀬川も久しぶりだった。こちらは日曜の朝方。

おいしいものを食べる。気心の知れたひとと盛んにおしゃべりする。じっくりと名著を読む。景色の良いところを散策する。思い切って遠くに行く(ただしお金がかかるが…)。昼寝をしてしまう。テレビで、たとえばWBGHかなにかの良くできたドキュメンタリー番組を視る…
幸か不幸か、酒にたよる体力はない。貧しい生活だが元気だけは失いたくない。癒しのレシピは今後ふやしてゆかねばならぬ。ここにもたくましい智恵が必要であろう。これからの課題だ。

2010年3月12日金曜日

地方分権学習会 今年度最終

3月11日に催された今年度最終の地方分権学習会(愛媛大学地域創成研究センター主催)に参加した。
今回は座る場所がないのではないかと云うほど地域創成研究センターのセミナー室が参加者の皆さんでいっぱいだった。
自治体の職員の方々の参加が特に多かった。とても喜ばしいことである。
県、市町の幹部職員の方々や大学人との貴重な交流の場である。大学人といっても色々な専攻の方々が集うという意義ももっている。法律学、財政学、社会政策学、政治学などなど、なんていったって多分野的でなきゃ今の時代の地域の問題状況には対応しきれないよなあと、改めて納得。
学生諸君が調べた少子高齢化に関する各自治体の取り組みへの調査結果が数表を交えて展開された。
あとは自由な討論であり、調査に当たる学生さんたちもとてもがんばって発言していた。
とくに法文学部の先生方や自治体の職員の方々の発言が、なるほどなあという感じであった。専門的にも本当に参考になった。
分権化改革にからむ地方基盤強化にかかわる率直な意見も披露されて、とても意義ふかいものだった。
地味なこの研究会を持続されてきたことにも感銘をうけた。

地域活性化フォーラムのお知らせ:木村秋則さんの講演

農学部の小田清隆先生がたが企画された「地域活性化フォーラム」が催されます。
ゲスト講演は、『奇跡のリンゴ』の著者 木村秋則氏です。
たしかにNHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」で再放映されたのを拝見した覚えがある。10年の無収穫期間をのりこえて完全無農薬、無肥料の栽培法を確立された。感動的だった。
わたしなど、正しいと見通せていることも目先の困難さからつい妥協してしまって、追求するのを止めてしまい、中途半端な結果になることが多い。
そんな風な、後になってから悔やまれるであろうケースには、慌てて答えを出さず、ひと呼吸おくことにしている。書きかけの原稿なら一日キーボードを打つのを止めて、放っておくこともある。そうして見直して再チャレンジする。原稿は打っているうちにはっと気付くことも多い。仕事はやっているうちにおのずと発展してゆくものだろう。しかし、気を入れてやらなければはっと気付くこともない。そこが苦労である。
だが10年となると半端じゃない。食は国の土台であり、なにより民を守るのだ。
学生さんたちの報告もあるという。拝聴するのが楽しみな会である。
-------------------

「地域活性化フォーラム:世代を超えて語り合おう、地域活性化はわれらから」
2010年3月14日(日曜日)
午前10時から12時まで 
リーダー養成プログラム、地域インターンシップ、社会人学び直し事業等の報告
午後1時から2時20分まで
木村秋則氏 講演会
午後2時40分から4時まで
パネルディスカッション

主会場:愛媛大学法文学部大講義室、中継会場:メディアホール
主催団体は、愛媛大学地域活性化教育協議会


*ひな人形の季節がまたたくまに過ぎてゆく。3月は本当に速く行く。

2010年3月10日水曜日

デジャ・ヴゥ考=えらい人とは自分の言葉で語ろう

私用で京都に滞在する。
休暇のつもりだったが、そうは呑気に行かない。食事をCOOPに買いにいったり、大型書店に寄ったり、結構忙しかった。
それにしても一貫して悪天候で、最後には雨になった。春先の降雨だが、湿っぽくてそのぶん寒さがしみた。それに何より、三方の山々がはっきり見えなくて残念だった。
ブラックの『プラトン入門』(岩波書店)が内山勝利のよくこなれた翻訳のおかげだろうか、面白い。そのほか、予讃線の車中からフランス市町村長の日常を描く文献も読み始める。表題に引かれて取り寄せたものだが、間違いなくしっかりした一冊を手に出来たので喜んでもいる。しかし、滞在中はたちまちこの解読に苦労な外書は放り出して、プラトン入門に集中した。
                                       *特急しおかぜが本四架橋を渡る時だけすこし晴れた。




週末だったのでテレビもさして面白いものはない。
ただ、あてもの的な番組だろうかテレビからデジャ・ヴゥ[既に見たという感覚、既視感とも]という言葉が聞こえた。日ごろこの言葉のカタカナ表記が気になっていた。番組では、デジャ・ヴとなっていたが、原語はdéjà-vuだから表題の様にせめて書きたい。カタカナ表記の限界は心得ているとしてもである。ひどいのになると、デジャ・ブと堂々と書かれている場合があり、うるさいことを云うつもりはないが、どう見てもおかしい。
小さい頃から聴覚だけは良かった。音楽の才があるという意味ではなく、小さい音を明瞭に聞き分けられるという解像度がたかい耳である。もちろん、人がこっちの悪口をひそひそ云っているのが聞き取れてしまい困るということもある。クラシックの静かな曲を良い再生装置で聴くのも好きであるが、肝心の基盤整備のための投資は貧乏で出来ていない。この良い演奏を良い音でという潜在的な要求は自分の中で非常に強い。
強い聴覚面での感覚の偏重は、あのことはどこかで聞いたことがあるのだが…という、音声記憶面での「デジャ・ヴゥ」に悩まされる結果ともなる。記憶は音源に結びつき、そして不確かになるとともに「はてさて、あれは何のことだったかな、誰のはなしだったかいな…」という、「デジャ・ヴゥ」とはいってはならないのかもしれない、いわば「既聴感」に悩まされる結果になる。「既読感」というあやふやな記憶の問題にも悩まされる。どの文献のどことは分からないが一節だけくっきりと覚えているという厄介なハエみたいなものもちらつく。そのため最近読んだ本を中心に一日中探し回っていることもある。困った性格だ。
決まり文句にはひとは最初はつきあってくれるが、二回目はまたかいなと思われ、おしまいには愛想を尽かされる。くどく云うのは私ども年寄りの常だが、これはいい加減に自制しなければ本当に嫌われ者になる。
連想が止まらないが、決まり文句といえば、フランス語にもいろいろあって、stéréotypeステレオティプだとかclichéクリシェとかである。lieu communリュー・コマンという表現もある。最初のは、「鉛版印刷」を連想するし、二番目は辞書によれば同時に「写真のネガ」の意味だそうで、三番目は良く云えばコモン・センス[常識、良識]だろうが、直訳すれば「共通の立ち位置」というのだろうか、十八番[おはこ]のはっと決まるいつもの表現という「からかい・ちゃかし」も含んでいようか。
何でこんなことにこだわるかと云えば、面接で堂々と自説を展開することが苦手なひとが多くなっているからだ。
決まり文句の宣伝みたいなもので世の中は溢れんばかりだ。企業も行政も大学もわたしの売り物はかくかくしかじかだという。その場合、売り込む文句は大体、その筋の業界人やベテランの考え出したものが多い。大組織が練った形で出してくるキャッチフレーズは良くできている場合が多い。しかし、個人がそのままそれを援用すると歯が浮いたような賛辞になる。借り物は借り物の器の大きさでしかない。
貴社は、御社は、これこれしかじかの理念をもたれ、社会的にはこれこれの実績をあげておられて、云々とリーフレットにある通りのことを述べても相手はちっとも感動してくれない。相手が聞きたいのはこっちの考え方だ。先日の坂本教授の講演会でもはっきりとこのやり方は駄目ですよと釘をさされた。
抽象的な売り込みの文言をこちらに引き寄せて、自分の実体験のなかで相当することを押し出すことはせめてしておきたい。場合によっては批判することもあえて行うべきだろう。もちろん相手が誇っていることに挑戦するのだから礼儀正しく評価点から先行して述べつつ、さてしかし、こういう視点からマーケットを業態を見直してみてはどうだろうかという代替案を押し出す、「実質批判案」でどうだろう。企業もその他の組織も骨のあるのを求めている。意味のないケンカを売るのは下策だが、果てしない順応や主体性のないへつらいがコンニャク人生に繋がるならばどこかで、区切りをつけるべきだ。

H&Mが大阪に進出という。家具ばかりではない。質実剛健の簡素な北欧デザインの産品がひたひたと押し寄せてくる。



2010年3月4日木曜日

就業・起業準備はじめのはじめ=筆記用具(2)

勤勉に書き記すということは万物の基礎である。書くということは、いわゆる就活と社会的起業の基礎である。自分自身の出会ったことや思いを具体的に実現してゆくための自己管理の続きなのである。

われわれの学生時代というのはほとんどが鉛筆と万年筆であって、ボールペンは最初は飛びついたが、経年変化で油脂が紙に染み出し、駄目だった。現在のようなとりどりの最新技術を駆使したボールペンはそんなことはとっくに克服している。実務に役立つし、頼もしい味方である。この場合もあれこれ浮気せずにこれ一種類というのを選んで、愛用すべきだろう。老婆心ながら。というのは、課金式のカードと同じだろうが、使い切らずにほうってあるのが沢山身の回りにあるからだ。ポイ捨てを原則に開発しているし、それを前提に使う側も書き心地を気にしない。こうしてわれわれの知的環境は荒廃するのだ。そうした傾向には断固逆らってゆかねばならない。
さて、前回はシャープペンの話だった。今回は万年筆。
執務するうえでわれわれより上の世代はこのインクとペンで苦労しているはずだ。大作曲家が、羽ペンで力んだ表情をして肖像画に描き表されている。ベートーベンもこの動物質の軟弱な先端で、五線譜の上に何もかも書いたのだろう。羽ペンは先端が時間とともに消耗し、先をナイフで削りながらインク瓶に突っ込んでは、さらに書き進む。
この先端部を金属で置き換えたのが、付けペンとかGペンという代物である。
最近は中学・高校生の英語もとことん活字体でいいらしいが、我々の頃は流麗な筆記体が必修だった。ただこの出所はいささか怪しいらしくて、正書体とわれわれが思い込まされていた面もあるらしい。そうだとすれば、小さい頃青い沢山の線と一本の赤い線を標準に悪戦苦闘したのは何だったんだと云いたくなった。外国の友人達の手書きが活字体とか筆記体が混じっていて、また崩れていて色々なので解読には苦労するが、英語をするまえに筆記体の手習いからはじめるという日本人の格式礼儀の文化がここにも出ていて面白い。
まあそれはいい。
万年筆にはある種の恨みもある。つまりしっかりした製品がやたらに高価だったからだ。
しゃれた人は悔しがって国産品にモンブランのインクを入れて使っていた。しかし要注意だ。肝心のときにインクがぼた落ちする。自社の万年筆に合わせて開発しているのであって、他社のペンにいれていただいてもお客様それは…、となる。
私事にわたるが手元に一本の赤いパーカーが残っている。父の遺品である。
結局はわたしもモンブランに落ち着いた。もっと太いのもあるというが、手の小さい私には第二番目のモノがぴったりだ。インクは吸引式でピストンがボディー尾部の回転によって引き込んでゆく。一回分でかなりの字数を書くことが出来る。万が一、原稿用紙(使わなくなったですね…)や年長の先生方への書簡は、どうしても万年筆でいきたい。
インクは、正確な商品名はなんというのか知らないが、黒と淡いブルーとブルー・ブラックとあるが、最近は第三番目のに決めている。
インク瓶は伝統的にフタに近いところがくびれた形態だったがスタイルが変わったという。インク瓶という風格は旧来のバージョンの方が良いのでは、と思ってネットを見てみたら、クラシックなのがまたまた復活していた。きっと要望があったのだろう。
原稿を本格的に大量に書かなければという段階になって、コンピュータが普及してきた。
だから我々の世代は、こてこての万年筆派とコンピュータ[当初はワープロ専用機という不思議な機械もあったが、私は使っていない]派に当初別れて、のちに後者に大部分の人々が合流したはずである。
最近この万年筆の機能を見直している。キーボードでカチャカチャ打つのは能率はいいのだが、なにかその後の達成感というか、責任感が希薄になるみたいだ。インクのしみだしをぬぐいつつ、丁寧に紙に向かって一字一字書いてゆくと、やはり違うなと感じる。
それではなぜノートをとるのか。実利的に何月何日にこれこれだというばかりでなく、相手の話の要点を記録するという精神活動は微妙にすべてに響いてくるのではないか。理解力の鍛練である。
勤勉に丁寧な字(行書でも草書でもご自由に)でひたすら書いてゆく。クリエイティブな精神は所詮そうした修業の向こうにしか見えてこないのかも知れない。

2010年3月2日火曜日

就業・起業準備はじめのはじめ=筆記用具(1)

 寒空の中を受験生が入試を終えて帰ってゆく。背中からお疲れであることがわかる。ご苦労様。

 さて、地域で社会的起業が担える人材の育成や学生諸君の就業支援という本題にもどっての話である。
 これはお断りしておくが長い話になる。
 企業の実務家の皆さんのニーズはどうか。
 一般の事務職なら、アイデアが豊富で柔軟な頭脳があれば、開発や企画部門だろう。
かっちり仕分けして、遺漏がないなら経理会計部門だろう。規則に通じていて、その適応について社会常識に則ってしっかり判断出来るなら総務だろう
 我々の企業内部への入り方のイメージは大体、こんなモノである。
 その他、近代的な企業組織は大変に内部が複雑である。これは企業分野に応じて、また企業の規模に応じて個別性も強いだろう。OJT(現場での新人養成)も最近の経済情勢の中で企業側が余裕を無くしており、難航しているのではなかろうか。「促戦力」という言い方にはウラがある。入社後ただちにふるつわものとつばぜり合いをせよということだ。これって、無理があるのではないか。だから就業前教育が必要だとなったり、インターンシップの花盛りになる。この点については、じゃあそうですかと軽く乗るわけにはいかない。問題性が既に噴出しているからだ。インターンシップの問題性は今後とも実践的に分析してゆきたい。
 企業側がその背後において[深層においてである]共通して就業希望者に対して求めている資質は何か?
 これは、はっきりしている。就業希望者、新たに業を起こすつもりのものは、なによりも強い読解力を養うことである。PISA型についてはなお詳しく触れることもあろう。また、NIE(Newspaper in Education)という教育運動についても今後論じてゆこう。読解力といってもあの退屈な国語の試験問題を思い浮かべてはならない。活きた、人生の局面を切り開いてゆく多面的な情報素材の理解力なのである。「生きるちから」の実践編である。
*まったくステットラーにはお世話になっている。先端に近い部分は手ずれている。ふるいライカカメラと同じである。右は、木物語Bとステットラー鉛筆削り。

 まず、知的活動、起業活動の基礎は、なにがどうなっているという現場(会社と短絡しない、自宅で気付いたことをメモった場合もそこが現場だ)での採録、メモ取りが必要である。また、日程管理の手帳への記入も含めよう。ディジタル系についてはおいおい検討してゆこう。
 まず社会人になってゆく準備過程の入り口に立った場合、意外に学生達をみていて心配なのが筆記用具の選択である。
 書くことは反射神経であり、作業は長時間にわたる場合も、指や肩が痛まない、腱鞘炎が起こりにくい方がよいに決まっている。
 シャープペンが良く使われているが、0.5ミリ芯のHBを使っているのが普通。テストの答案などで細かい字で薄く書かれていると、採点者にとって読み取るのが大変に苦労な場合がある。やはりくっきりしっかり書くべきだろう。入試や就職試験でもいっしょではないか。
 しかし、この細さではまず使用者の筆圧によるが、折れやすくないか。さもなくば芯が折れない様に弱い筆圧で書かなければならない。そうなると必然的に字がだらけるし、思考の区切りも悪くなる。私の場合はしたがって0.5では絶対に駄目である。筆記用具を軽視する事なかれ。安いボールペンでなにからなにまでというのはいただけない。
 そこで、シャープペンの遍歴が始まった。デザイナーや技術職の設計者が使うステットラーのホルダーに注目して0.7を使ってみた。まあまあである。しかし、なお頼りなさが感じられた。
 その次に、0.9ミリで芯をBにしてみた。先端のとがった部分で書くようにしてゆくと、細い字もけっこういける。なによりも折れないようになったし、HBなどよりよほど滑らかだ。2Bで実験してみたが、これは緩すぎてだめだった。はじめは銀色のホルダーだったが、けばくて好きになれなかった。あるとき黒いのを店頭で見つけた。それ以来、0.9ミリで芯をB(芯は国内各社の優秀なのがある)にしている(写真をご覧ください)。
 長時間の会議や講習会でのメモどり、自己管理の手帳記入など縦横に役立っている。
 ボディも頑丈で、長年使っているが可動部分もしっかりしていて、機構も簡単だ。ドイツの傑作である。TOMBOWのリサイクル・ペンシルである「木物語」も気に入っているが、こちらは鉛筆削りの方をまたまたステットラーSTAEDTLERを愛用している。刃がなまって来たら取り換えられる。エコである。
 字を書くことはある程度の労苦を我々に強いるが、そればかりじゃない。頭と書くもの(キーボードで打つもの)とが近づいてくる。筆まめなのは情報化であろうとなんだろうと、大切なことだ。人間、せめて書く楽しみだけは失いたくない。
 大学生協にも注文がある。だんだんファッション的な筆記用具が中心になってきて、武骨な工学部風の筆記具がなおざりである。上記のステットラーもいつの間にか店頭から消えている。文房具の販売部は、なぜ消費者への「啓蒙」活動を積極的に行わないのか(カッコ付の言葉にはエリートのおごりが感じられるが、他に良い表現を見つけられない)。細けりゃいいんだというのは、どこの世界でも見直されているのじゃないの?
 知的活動の周辺を一巡りトレッキングの旅をしてみよう。ながいおはなしの始まりである。