2010年3月25日木曜日

遍路と巡礼(3)

フランス人の生活習慣の変容---宗教的な巡礼から健康志向のトレッキングへ

 
 上に触れたように、フランスでも巡礼という行為は中世以来の宗教的な行い[i]から、徐々に意味変容してきた。第一に、宗教的な信条にかかわりなく、健康志向や知らない土地に行ってみたいというエクゾティスムから若者の参加が増えている。コンポステラへの巡礼者の数は増大している。1999年には10万人が到着し、2004年にはそれが20万人に増大したという。徒歩、自転車、時に馬による巡礼という。第二に、したがって、小道の整備のおいては、巡礼というよりも、行政的な表看板としてトレッキング道として整備される傾向があるということである[ii]
 EUレベルでは、欧州大トレッキングルートSentier européen de grande randonnéeとして11の大横断・縦断のルートが整備されている。そのうち、E3ルートが、ブルガリア、ルーマニア、ハンガリー、スロヴァキア、ポーランド、チェコ、ドイツ、リュクセンブルク、ベルギー、フランス、スペインという最終的にはコンポステラ巡礼道に重なりあいつつ欧州を弓なりに横断するルートとして設定されている。E3ルートの全長は6300キロに及ぶ。

 もちろん、フランスでの状況を申せば、毎日曜日に礼拝にカトリック教会に通う人々の数が激減している。プラクティシアン[宗教的祭祀に参加し実行するひと]が急激にフランス社会のなかでマイノリティー化しつつある。80年代の留学時代、日本人カトリック会のバス旅行で廃虚になってしまい普通は入れないような中世の修道院なども詳しくまわることが出来た。主要都市であろうと小さな村であろうともカテドラル[シャペル]では日曜日には礼拝が行われている。しかし、歴史的に由緒ある立派な聖堂の中に入ってみると、前列2列にだけ礼拝の信者さんがいたことが、今でも脳裏に焼き付いている。種々の統計を総合しているネット情報を見れば、フランス人の大体60%がカトリック信者と答え、そのうち5%が日曜ごとに教会での礼拝に参加しているのに過ぎないという。無宗教との答えは、27%程度である[iii]。死者を弔う儀式の場としてのみ利用され、ふだんはカトリック教会組織は敬遠され神棚に祭られるという事実がある。宗教から健康と環境という新しいシンボルへの人々の移動がグローバリズムのなかで一般化していて、その点、保守的に見えるフランスでも事態はかわらない[iv]
 
 *サンジェルマン・デプレ教会(2009年1月取材、以下コメントのない映像は同時期のもの)。手前舗道上のデコボコは現代アートのオブジェで, 80年代当時にはもちろんなかった。

留学先はパリの政治学院IEP(シアンス・ポ)であったが、サンジェルマン・デプレ教会から5分ほどのところである。偶然にも門前町の教育機関に通っていたことになる。第三共和制から続くエリートの殿堂みたいなところで、そこから研究者への道を選んだり、国立行政学院ENAに進学して、高級官僚・外交官への道を選ぶ人もいる。当時の主流は行政学や政治学であったが、現在では改組が進んでいて、アメリカ流にビジネススクール化しているという。もちろん往時の教養主義的な、あるいは文人支配の気分が残っている政治学院を懐かしむ人もいる。われわれの精神生活に巨大な石材による伝統ある寺院は大きな影響を与えていた。セミナーのフランス人院生の仲間と話していても、古い街区に住んでいるものはそれを誇りにしている風だった。

パリ:巡礼の出発拠点
 
 フランスの巡礼路は、ヴェズレイVézelay(ブルゴーニュの教会都市)[v]からの中部フランス経由のルートやル・ピュイLe PuyやアルルArlesからの南部ルートが有名だが、それと並んで、パリからの巡礼路を忘れてはならないであろう[vi]。サンチャゴに至る巡礼路は基本的にフランスの宗教的な拠点を出発点にしているが、外国人の巡礼者のなかでフランス人が多かったことは想像に難くない。したがってこれらルートが、「フランス人の道」と呼ばれたことも納得ゆくことである[vii]
 はじめに触れたように、シテ島とサンルイ島を中心にパリができ上がった。だからこの辺がパリ一区から四区の中心部である。シテ島の北側に、パリ市庁舎とサンジャックの塔がある。この塔は、もともと16世紀の教会Saint-Jacques-de-la-Boucherieの鐘つきの塔であった。古記録によれば、シャルルマーニュ大帝[8-9世紀初頭に王位]がそもそもこの教会の基礎を据えたとある。しかしもちろんその頃ならロマネスクだから現在は何の痕跡もない。
 この鐘つき堂としての塔は、1509年から1523年にかけて、ジャン・ドゥ・フェランJean de Felin, ジュリアン・メナールJulien Ménard, ジャン・ドゥ・ルヴィエJean de Revierによって創建された。塔上に福音のシンボルとしての立像[ライオン、牡牛、鷲、それにひと]と共に、ひとつの聖ジャック像が立てられる。ここからはるかスペインのコンポステラに向けて巡礼の旅が始まる。巡礼はここからパリ南部に向けて出立したのである。教会は1793年の大革命期に破壊され、塔のみ残る。その後は気象台などとして使われた。パスカルが空気圧の実験をしたとしてそれはそれで著名である。塔はたいまつを意味する火炎が立ち上がったゴチック建築であり、もとの教会の遺構がそこだけ残ったのである。
 19世紀の半ばに解体修理され、大革命で破壊されたサン・ジャックの立像が付け加えられた。
 1965年、スペイン政府からコンポステラ巡礼への出発点とみとめる銘板がパリ市に贈られた。
 1998の巡礼道にかかわる他の70の建造物とともに世界遺産に登録されている。
                *サンジェルマン教会裏の古い小路。

私たちのパリでの巡礼道の調査はまだ詳細には渡っていない。確実なのは、このサンジャックの塔から真南に向かって、オルレアン門にくだり、そうして、パリを出るとオルレアンに向かうのである。しかし、新式のまっすぐの街路を昔の巡礼が歩んだとは考えられない。古い裏道にヒントがありそうだ。
           *サンジャックの塔。2009年1月に撮影。極寒であった。
 
パリの街区はオスマン男爵によって第二帝政期に大幅な市街区の整理[場合によっては打ち壊し]が行われ、今日見るような主要道路の拡幅と広場に向かっての放射状の道路体系ができ上がる。だが、注意深く観察すると、大幹線道路の傍に古い街区が残っている。このうねうねと曲がりくねった狭い道をただ一点の星である、コンポステラに向かって歩んだのであろう。  

          *セーヌ河岸から坂を登るとソルボンヌ・パリ第一大学に出る。

今回は、 サンジャックの塔からパリ市庁舎に行く。冬だったので、西正面にスケートリンクを敷設して、ガラス張りにレストハウスを造っていた。パリ市も商売がうまい。ネオルネサンス様式で1533年の創設という。その後は革命の嵐に翻弄される。常に政争の場として登場する。ついに1871524日のパリ・コミューンの最後とともに焼失。第三共和制期に再建される。留学中にフランス人に誘われてコンサートがあるというので入ったことがあるが、インテリアは優雅な古色を備えた立派な建物だった。維持に大変だろうなという印象を得た。日本の若い女性(ほとんどまだ少女の印象)がフルートのコンペでグランプリを得て、記念に演奏した。か細いが澄んだ音だった。パリは音楽家の街でもある。街頭で演奏する人々も多い。中には地下鉄に乗り込んできていきなり南米のリズムが車内にあふれかえることもある。小銭を市民は投じている。駅内での演奏も最近は余り見かけない。季節差があるのだろうか。
         *ノートルダム寺院の華麗なバラ窓。

 先ほどのべたノートルダム大聖堂に入る。
 つぎにサンジェルマン教会である。こちらが最古のパリの修道教会である。すべてのカトリック信仰はこの地味なロマネスクの色合いの濃い教会修道院から始まった。廻りは、広大な荘園だったという。サンジェルマン教会から南下して、サンシュルピス修道院を経てモンパルナスへ、更にやや東に寄りつつ南下すると、パリ市内の環状道路に突き当たる。大きな通りでこの辺をブルバール・ジュールダンBoulevard Jourdanという。最近、市内電車の効用が見直されて、パリ市も敷設し始めた。いま歩いてみると、アレジアやオルレアン門やそこから自分たちの居住区まで随分距離があるので驚く。まだ若かったし、熱に浮かされるように留学生活を送ったことが想い出される。
 パリからオルレアンに向かうのがオルレアン街道であり、パリからの出口のひとつがオルレアン門である。
 19世紀までは意味をもっていたパリを囲む城壁も意味を失い、とくに1930年代の大戦間時代には時の反戦的国際世論を反映してロックフェラー一族の音頭によって国際大学都市Cité Internationale Universitaire de Parisが建設される。とりわけ、80年代初頭にその西端の建物に住んでいただけにオルレアン門周辺は生活圏としても思い出が深い。パリ解放のルクレール将軍率いる軍隊がこの門からパリ市内に殺到したという。留学中にパリ解放の40周年に行き当たったので、街路に立って往年の軍用車両が記念のパレードをしているのを間近にみた。かなりお歳を召された方々が、解放当時を懐かしんでであろうか、熱狂的に廻りのアパルトマンから出てきて手を振っていた。

 *パリ14区、オルレアン門付近のアパルトマン、工事は路面電車敷設のもの(2006年調査)

画像で、まずオルレアン門周辺の街区を見ておいていただきたい。特に赤いレンガに注目していただきたい。膨大なパリ守備の城壁は取り壊され、市民公営アパートに転換された。この建造物の外壁にかつての城壁が記念に素材として廃物利用されていて、一定のデザインともなっている。ちなみに、ヴォージュ広場を除いて、パリにはこの式のアパルトマンを除き他にはほとんどレンガ造り[レンガ意匠]の建物はない。レンガを多用したバラ色の南都トゥルーズとは大きな景観上の差となっている[viii]

あとがき

         *パリ市庁舎。前庭にスケートリンクが設けられていた。

 200812月初頭に、愛媛大学では日仏修好の150周年を記念する国際シンポジウムが催された。はるばる招きに応じて友人達もフランスからもかけつけてくれた。ブルゴーニュ大学、政治学院関係の法律政治系の先生方や国立統計経済研究所INSEEの方たちと共に、国際交流を満喫できるとても愉快な一週間だった。大変にハードな仕事だったが、松山という地域や愛媛大学を押し出すことが出来て、意義深い催しであったと考えている。さて、その直後の20091月にフランスでの遍路と巡礼の調査旅行であった。極寒のなかでの調査行であり、しばしばカフェで暖をとらねばならなかった。
 パリに到着の翌日はランスへTGVで直行した。
 最後にランスのことだけを簡単にご報告しておこう。良く知られている通り、シャンパーニュ地方の首都(人口20万)であり、ランスの大聖堂(現存のゴチック建造物は13~15世紀)によって世界に知られている。この都市はやはり広義の巡礼経路に含めるべきである。ルクセンブルグなどから西南に下って、やがてパリに至る東や北の国々からサンチャゴに至る巡礼の経路として重要拠点である。風格ある北のカトリック教会を有し、他を威圧して大きい。第一次大戦における空爆の犠牲となった歴史的な構築物であり、いまだに修復の作業が続く。
 非宗教性を国是とするフランスが、もっとも熱心なカトリック遺構の守護者となっている。

 
 *シテ島とサンルイ島をむすぶのがサンルイ橋である。音楽家がジャズを奏でていた(2003年12月取材)。


[i] Denise Péricard-Méa, Les Pèlerinages au moyen age, Gisserot, 2002. 同書によれば、今日の「巡礼 pèlerinage」という語は、本来は、「行列をなして行進することprocession」とかつては同義であったという(p.11)。Perlin巡礼者の原義は、「国外逃亡者」、「他の土地に行くもの」であったという。
関哲行はいう。「自らの意思でさまざまな霊場を巡拝しつつ聖地をめざす巡礼者にとって、巡励行は日常的生活圏を離脱し、聖遺物の横溢した「聖なる空間」すなわち「異界」へ参入すること、別言すれば物的世界の保護を離れた「異邦人peregrinus, 「神の貧民」となることを意味した。巡礼者のもつ半俗半聖の身分、…。イエスの苦難の道の追体験でもあったこうした「信仰の旅」を基本としながらも、サンティアゴ巡礼にはつねに余暇(観光)の要素が付着していた。…内面的「純化の旅」との定義は一面的である。むしろそれは信仰と余暇の両義性において、捉えられねばならない。」(「中世のサンティアゴ巡礼と民衆信仰」、『巡礼と民衆信仰:地中海世界史4』、歴史学界研究会編、青木書店、1999年、pp.135-136
[ii] 軽快な現代的なトレッキングガイドとして、以下を参照。
Jean-Yves Grégoire et al.,Le Chimin de Vézelay, Rando éditions, 2004;  Topo-Guide, Sentier vers Saint-Jacques-de-Compostelle via Vézelay, 2004.
 併せて以下を参照。水谷チセ子『フランスの田舎道:巡礼の道をたずねて』、文藝書房、1998年。日本人による紀行文として息遣いの良さが好感をよぶ作品である。
[iii] "Religion en France", in Wikipédia: L'encyclopédie libre. 統計参照はこのインターネットの万有辞典によった。
[iv] もちろん、良く知られているように、フランスは植民地主義の負の遺産にも悩まされている。カトリック教会の教義に十分な理解を示さず、また、それ故にというべきか、大革命の原理をも相対化しようとするエスニシティ集団が増えている。イスラームの教えを護る人々である。矛盾は共和制の下に於ける非宗教性原理を堅く守ろうとする公教育の場での「スカーフ論争」となって顕れる。内藤正典、阪口正二郎編著『人の法vs.神の法:スカーフ論争からみる西欧とイスラームの断層』日本評論社、2007
[v] 本格的な仏文の史書として、Bernard Pujo, Histoire de Vézelay, Perrin, 2000. 冒頭に言う。「マドレーヌ寺院の鐘は旅人を導き、その音は彼方より聞こえる。それがどの方向からであっても。旅人はまるで魔法にかかったかのごとく引き寄せられる。」(同書、p.7
   Édith de La Héronnière, Vézelay: L'esprit du lieu, Petite bibliothèque Payot, 2006.
 Jaques d'Arès (ed.), Vézelay et saint Bernard, Dervy, 2002. 本書は、聖地巡礼の出発点であるとともに、第二次十字軍の進発点であったこの丘の上の聖地を多面的に読み解いている。
[vi] コンポステラへの巡礼路は狭義には、これら四都市からピレネー越えでスペイン北部をたどることになっている。しかし、イタリア、ベルギー、ドイツ等のその他の国々からの巡路も広義には含める場合がある。特に、ランスの場合は、トリール、ルクセンブルグなどからパリへの重要通過点である。
[vii] 関哲行『スペイン巡礼史:「地の果ての聖地」を辿る』講談社現代新書、p.113以下。
[viii] パリ全体の街区や眺望を論じる上で、以下は常に変わらぬリファレンスである。
Yann et Anne Arthus-Bertrand, Paris vu du ciel, Chêne, 1990;  Paris: Atlas par arrondissements, Michelin, éditions des voyages, 2003;  Le Guide Vert: Paris, Michelin, éditions des voyages, 2003( もちろんパリに市街電車が導入されて以来、共に新版に買い替えなければならない時期だが…).

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