2010年5月22日土曜日

「読み-書き-話す」とICT

どうも心配なことがいつもちらちらあって、授業の改善とも結びついているのでこれは難事業ではある。
困った、困ったというのは、ごく普通の大学生諸君の知的生活は大丈夫なのだろうか?という嫌な問いかけが脳裏を離れないからだ。
まず、廻りの若者層が、決定的に書物から遠くなっていきつつある。遠心力が働いているみたいだ。
本を読むことが必要ないかのごとくに扱われている。宿題が出ると、仕方なしに指定文献は読む。だが、新書の簡単なものであってもひどく苦しむ人が多い。つまり日常生活に読書が構造的に組み込まれていないからだ。
だから、精神的には短絡的に好き/嫌いとか私にあう/あわないで済ませている人が多い。これは、だから世代的には彼らも歳を食ってゆくのだから、中高年齢の方々にやがては及んでゆく。書店でもしっかりした本に注目して熱心に棚を探している方達は、ほとんどが高年齢の方々に限られる。東京駅近くの丸善もお年寄りのデートスポットである。
一部の学術書を中心に文献が高値なのは気になるが、本を購入する人が少なくなっていけば悪循環的に書籍が高価になるのはものの理である。いつでも学生が買っておくべき古典的な文献まで、今や大部分が絶版の憂き目に遭う。最低の食費やそのほかだけ確保して、あとは本を買うべし。哲学や社会科学や歴史を叙述する宝のような古典文献はつまらないものなのか? いやとても面白いのである。そして、人生の感受性を養う文学。それは、どの年齢にあろうとも多面的な感動をもたらすのである。たとえばトゥルゲーネフの『初恋』(いくつかの文庫にはいっている)。そこに見られる多層構造のドラマツルギー。甘く、かつ苦い経験をつみつつ大人になってゆく若い感性の描写…。だが、こうした売れ筋はべつとしてもちょっと深く読もうと思うと、かつての古典類は次々に絶版の憂き目に遭っている。大トゥルゲーネフについても然り。店頭ではあと『父と子』や『貴族の巣』くらいしか無い。
さて、そこでネットブックと来るのだが、どうも私はそのあり方には疑問符を付けている。いまさら機器を通して本を読むことが面倒だということ以外に(普及してくれば、機械やシステムへの興味からきっと私も導入するだろうが)、仮に、紙媒体に極小の接触しかしていない人が、この液晶に映し出される文献[文面]を行間までしっかり読んでくれるのだろうかという嫌な気分がふっきれない。余計なお世話かも知れない。しかし、そういう皮肉な想像がどうしても頭から離れない。しっかりした読解力と人間力があってこそ技術の精華たるICTも活きてくるのだから。
あえて直言しておこう。学生諸君の「新三無主義」はひどい状態であり、教育機関には警鐘を乱打しておきたいし、いつまでも緩い番組や紙面でその日暮らしをするジャーナリズム界にも警告しておきたい。そのかなたに企業側にとっても、いつまでも生煮えの人材しか手に入らない本当の理由があるのだ(もちろん努力して限界を突破してゆく若者がいないわけではない。念のため。でもその数は少なすぎるのではないか、それが本論の論点である)。
学生諸君の「新三無主義」とは、紙媒体の新聞をはじめ文献を読まない、テレビのニュース番組を視ない、そうして、携帯でもパソコンでもよい、ネット新聞をみているのかというとさっぱりですという、ないない状態を指す。総じて、想像力が枯渇しているし、携帯の連絡やツイッターでなんでも済むという風潮である。それで本当のコミュニケーション力なのか。
それと何でもかんでも酒でも呑みに行けば率直な話が聴けて、人間的な交流が盛んになるというのも、後進的じゃないのか。赤ちょうちんとカラオケ文化は、しらふの真っ昼間のもっと重大な問題を等閑視することにつながってしまう。西欧社会だってパーティーはないわけじゃない。だが、公的な場面でだんまりの人が、呑んだからうまい結論になだれ込めるというのは甘くはないか。アルコールを飲めばストレスが解消だというのは、一億アルコール依存症への道である。もしまじめに、そんなことを考えているとすれば、美しくドレスアップしていようと、スーツに身を固めた「自称」若き職場のエースだろうと何だろうと「おじさん化」している証拠なのだ。
大事な時間が目の前で流れてゆく。少年老いやすく学成りがたしだ。
色々な切り方があるだろう。それでも学べ、と云いたい。私とわたしの隣にいる人々が、みな充実してしっかり繋がりあい、天から与えられた人生を全うしなければならない。
わたしだけ幸せよ、あとは知りませんでは、実際には悲惨な結果しか待っていないのだ。人生の根本的な指針は平凡にして重い。
「新三無主義」の克服のために高等教育機関はいかに取り組みを強化すべきなのか、探究は続く。

2010年5月20日木曜日

ジョブカフェ/愛workさんを訪問

事務局長たちと共に「ジョブカフェ/愛work」すなわち「えひめ若年人材育成推進機構」を市内にたずねる。
松山市の中心街の構成は、丁度、大街道(おおかいどう)が銀天街(ぎんてんがい)と繋がって、L型に商店街が直角に折れ曲がっている。その銀天街へまがったところにあるGETのビルの4階に、上記の機構がおかれている。空間的に見ても、大きな組織だと思った。圧倒された。
平日の午後2時半過ぎだったが、沢山の職域開拓を求める人々がブースを埋めている。
センター長の大内 氏とコーディネーターの不動氏のおふたりにお会いすることが出来た。
いただいた統計資料は興味深いものだった。
まず、新規登録者の数的な推移であるが、平成16年度から21年度までに、無業の方々は7100名余りが登録。在職者は3600名。注目すべきは在学生の登録数の推移である。
16年度に566名だったのが、21年度で1463名である。ざっと三倍増である(累積で5787名)。
就職決定者も特徴的である(比較はいずれも平成16年度実績と21年度のもの)。
学生は、115名が、576名へと飛躍している。五倍である。
学生以外の方々が、519名から1506名へと三倍化しているのに比しても、顕著な数字ではないだろうか。
こうして、累積で見ても、この間に、学生の2442名が就職を決定しており、学生以外の階層の方々は、6989名となっている。
いずれにせよ、大学からあふれ出た求職希望者が若年人材育成の為の機構組織のお陰で受け止められ、就業対象の職域を拡大しつつ就活を成し遂げている実体の一端が理解できたのであった。
お二人ともお忙しい中を時間をいただいた。長いこと意見交換をさせていただいた。
上記の様な詳しい統計実績表と、分かりやすくしっかりとまとめられたパンフレットをいただいた。わたしたちのNPOにとっても大変に勉強になった。有り難うございます。
帰りに大街道のスターバックスでエスプレッソを呑む。苦いので思わず緊張の目が覚めた。ぶらぶら歩いて大学に帰る。
このいわゆるロープウェイ街の道筋、以前に比べてNPO法人の看板が増えたみたい。
雨降りは止んで、蒸し暑い6月のような午後になった。なににせよ気温が上がってくれた方がいい。

2010年5月19日水曜日

中庭の雑草を抜く

ミュージアムの中庭はちょっとした広さで、芝生が植えられている。順調に芝が芽吹けばホッとする空間になる。ミュージアムのスタッフの一員だからこの芝生の管理にも加わる。デスクワークの傍らだから丁度運動がてらのガーデニングだ。昨年は植えられたばかりの芝生の管理には気を使った。
西側の建物の二三階は教室であり、テラスがついている。我々が庭仕事をするのを学生も教員も教室の行き来に眺めることになる。フランス人教員のM先生もよく通っていて、こちらに大きく手を振ったりする。
英語ネイティブの先生方はなぜか立ち止まって芝生をめでる傾向がある。面白い。
中国の江南から来た留学生は緑いっぱいになった時、これにプールがついていると言うことはないのですがと、述べていた。中国南部の豪邸は芝生とプールが庭になければならないらしい。
芝を通して民族的な感性の違いがよく分かる。インドネシアの留学生達は島々の相異なる踊りをひたすら私たちに見せてくれた。フェスティバルの一風景である。
しかし今年の雨の多さには驚く。先だっては雑草をあらから抜き取った。雑草までが十分に成育していないことが分かる。芝生の状態も当然ながら悪そうだ。いつもは避けている陽光が恋しくなる。また晴れるだろうが、今年はすっきりした晴天が長続きしない。大変なことになってきている。

2010年5月16日日曜日

植物工場について学ぶ

講演会に参加し、植物工場について学ぶ。
新型の野菜工場について、将来の人材を養成しなければならないという結論だった。最終的には常勤雇用の拡大という点が留意されていることに共感した。

生産性の向上と人材育成が最終的に大きな結論だったが、まったく同感だ。
この催し、運営全般がとてもお元気な退職教職員の皆さんによって担われていた。
入り口では工場で出来たトマトが配られており、ほほ笑ましかった。
在学生(農学部はもちろん教育や法文学部をはじめ他学部)にも強く関心を持ってもらうような広報活動がなんといっても必要だろう。これは省みて他をいうべし、であって、我々のNPOも偉そうなことは言えない。決め手は斬新な企画であり、広報であり、活動のトータル・デザインがひつようである。言葉と絵のコラボ、簡潔なキャッチフレーズとスマートな画像の問題だ。
南加ホールは観客として見ても極めて快適だった。

なぜ植物工場ではビニールハウスの2倍のトマトが…?

私どものCB/SB地域人材育成のための「愛媛アカデメイア」とほぼ同時にNPO法人資格を取得した団体が、NPO法人 愛媛大学校友会人材活用センターである。地域の人材活用を校友会の観点から展開しようとする組織である。健闘を祈りたい。
愛媛大学農学部教授の仁科弘重 氏による表題の講演と、尺八演奏家の 橋本岳人山 氏の演奏会が催される。仁科教授のお名前はこのブログの始めの頃、野菜工場の研究で触れたことがある。勿論、よく存じ上げている。
さて、この南加記念ホールという建物は、新制大学創立直後における新制愛媛大学の施設の状況を憂えたカリフォルニア在住の県人会メンバーが募金を募って、木造のホールを寄贈したものである。
フラットな木の床であったので、演劇部や卓球・チアガールなど多彩な練習場所として役立っていた。しかし、建物の痛みが激しく、解体措置まで検討されたが幸い補強技術の進歩により外形を保存しつつ内容は一新した。
内部は階段教室型のしゃれた演奏・講演会場として生まれ変わった。256席を備えているから、立派なものだ。
内装も見に行ったが重厚な木の補強材と内装が用いられ、文字通り変身したのに驚いた。むき出しのコンクリートの中で居住性を無視した狭苦しい部屋で背を丸くして教育・研究をという国立大学のイメージはもう古いのだ。もちろん教職員の待遇改善や臨時職員の常勤化など今後に残された課題も多い。民間・行政の側の高等教育機関への十分な投資を望みたい。
隣の校友会館の一階にもSETORIANというイタリアン・レストランが開店して便利になった。「イタ飯」が学内に出来るといろいろ利用するチャンスが広がる。また、物産販売所も出来た。共ながら快挙である。
大学という拠点がもつ地熱をしっかりと感じ取り、有効活用し、民間企業・行政・NPO・高等教育機関の間で、シナジー効果を発揮させる、よい意味でのleverage[レバレッジ:自己資本収益力の集中投資による飛躍的向上]をかけることが必要であろう。お断りするが、先行きなしの投機活動とはこれは違ったお話である。また、何をするのも自分の仕事が増えるから嫌だという悪しき慣行とも勿論一線を画す考え方が必要である。


尺八演奏と講演会の午後
5月16日(日曜日)13:30より
会場は南加記念ホール(愛媛大学正門を入ってすぐ左)である。

2010年5月15日土曜日

不順な天候

どうも春がはっきり姿を現さないうちに、一足飛びに初夏に入ってゆく。
空が晴れても、気温が一向にあがらない。ひどい場合は5月であっても部屋に暖房が入る。それにしても、どうしてもヨーロッパの秋口の光景を思い出してしまう。1991年夏の終わりにリューベックをたずねる。トーマス・マンの生家を見たかったからである。それは大きな旧領事邸であった。9月の初めというのに、空は青ざめた女の頬のように透き通って、ひたすら薄ら寒かった。あいもののベージュ色のコートを羽織っている人も多かった。みな黙然(もくねん)と暮らしている。パリからハンブルクまでは夜行の寝台車をとった。目を覚ますと依然として列車は全速で走っていたが、いつのまにか反対向きに走行していたのには驚いた。早朝のハンブルクでローカル列車に乗りかえる。パリを本拠とした一ヶ月足らずの調査旅行の一環だった。北ドイツの憂愁を今でも忘れない。そこから壁崩壊直後のベルリンをへて、プラハ、ウイーンとたずね、パリにまた戻った。今でも大旅行だったと思う。
こういう冷涼な気候のもとでは、なるべく歩くにかぎる。心身ともに弱まる危険性があるからだ。過食はもちろん論外だ。ドイツ人、オランダ人、スウェーデン人、沢山の人々と82年から84年にかけての留学中は出会ったが、彼らは男女を問わずリュックを背負ってパリの中をどんどん歩く。真冬でも家に引きこもったりはせず、赤い頬をしてとにかく歩く。面白いと思ったが、彼らにしたらDNAに刷り込まれた生き残りの智恵なのである。とにかく歩くことだ。
先日はプレゼンテーションをおこなうことになった。本体は事務局長がしてくれたが、その後の委員の先生方との応答は私が引き受ける。5分の制限がはみ出して、10分にわたった。そのまま、近くのNPOの事務所をたずね、10分ほど歓談し一休みさせていただき、慌ただしく大学にもどる。なぜ急ぐかというと、その後に担当の授業があったからだ。
授業の進行では当然、さきほどのプレゼンの興奮を自分が引きずっていることを自覚させられるものとなった。
どうしても専門の方向には頭が向かない。自己管理論に流れてゆく。まあ専門科目の話はそれとして、知的生活の手続き論的な話もたまにはいいだろう。学生諸君との率直な意見交換はいつも楽しいものだ。
まず、我々が社会生活を送ってゆく場合の情報管理から述べる。新聞、TV報道番組、ネット情報や文献やそれに仲間内のおしゃべりなど。最近は学生諸君も紙媒体の新聞を読まなくなっている。我々も然りである。以前ほど気を入れて紙の方の新聞の記事を読まなくなった。出来事がああまたか…という具合に風化した感性のかなたを上滑ってゆく。曖昧な過渡的な時代。WEBでも各社は記事を載せて居てくれるが、本紙ほどの充実はない。だがいったい大新聞社はこの先どうしてゆくのであろうか?他人事ながら心配になってくる。
バブル崩壊後、ずーっとそうだったのではないか。つかみ所の無い苦しさが続く。
感動しないし、信用しないし、結果的には希望を持たなくなっている。しかし、それではどう考えても済まぬだろう。世界はきしみをたてつつ動いている。冷戦後の清算がまだ済んでいないみたいだ。紛争地帯はもちろんのこと、今度はギリシャを皮切りに南欧がいかんという。ここは肝を据えて情報洪水と戦う他ない。煮え切らないドイツ首相をサルコジ氏は脅しつけて統合支援策を練り上げたという。スリリングな状況である。
学生諸君には国内紙にとどまらず、ネットで読めるNYTimes[ニューヨーク・タイムズ]など優良な海外紙に是非親しんでもらいたい。そうすれば、いかに日本がガラパゴス状況(国際的に孤立した閉鎖領域)なのかが分かったりするからだ。Le Monde[ル・モンド]は専攻の商売上、予約購読者として月800円ほどを支払って読んでいる。有料の読者にはなにかと便利なツールが提供される。なによりデータベースが役に立つ。最新記事でも的は外さないのは流石だ。分かりにくいギリシャ問題でもずばりいち早くその本質が読み取れる。ただ、欧米の高級紙の癖(クセ)として、やたらに難しい単語を導入部で使いたがる。また、タイムズの方は私の英語力の貧困を反映してか、記事が長すぎると感じる。だから読み飛ばす以外に無い。それでいいのだ。
学生諸君への宿題は二つの新聞記事(今回は東京新聞)の3行要約を課しておいた。一つの新聞記事は一つのメッセージを伝えている。複数の主題をこめることはない。問題が重層的なのは当然だが、読者にいいたいことは一つに決まっている。ジャーナリストの方々に教えていただいた新人記者の鍛え方を大学の授業課題でも拝借している。
そうだ、そうした地道な努力の彼方に「人生や社会の難問を読み解く力」、すなわちPISA[ピサ]型の読解力が鍛えられるのだ。

2010年5月10日月曜日

統一ロゴについて、法人の活動について

徳田明仁氏(愛媛大学准教授として本学ミュージアムの統一空間デザインを成し遂げる。&T.Designアンドティーデザインを主催:http://www.andt-design.com/)が本NPOの為に統一的なロゴをデザインしてくださった。
今後はこのロゴ・マークが本法人の活動の各場面に顔を出すであろう。
よく見るとエッフェル塔である。また、大地に足を踏まえた自律的な個人の形象でもある。そうした人々が中心円に向かって支え合う。社会的排除を克服して、社会的参加や包摂(「排除」exclusionも「包摂」inclusionもあたらしい共助的な社会構築にむけて用いられつつある分析概念)にむかって人々の智恵と力を結集する(作者の先生のお話をうかがい、わたしが勝手に《解釈》interprétation を付け加えている)。いずれにせよ、本法人の本来の目標を良く示していると思った。もちろん沢山の愉快な解釈が可能である。彩りが豊かなのも救われた気分だった。ひょっとすると肩凝りをほぐす新型の省エネ機を横から眺めたのかも知れない…
しかし、愚痴を言うわけではないが、本法人の具体的な事業をしっかりと第三者に分かっていただけるようにするのに、ひどく難渋している。超えなければならない峠であろう。
そもそも法人の目的が、地域を担えるコミュニティ・ビジネスやソーシャル・ビジネスを起こして運営する人材を育ててゆくというやや理念先行の構えからでき上がっていることによるのかもしれない。
具体的にはまず何よりも、地域の若い世代が寄り集い、学び、助け合うことが出来る居場所を作り出し、しっかりした内容の研修会を連続して催すのだが、そうした会そのものを組織する作業は積極的に学生・院生諸君が担っている。ここで、はたと気付いた。OJTが自主組織活動の中で自然と展開されているのである。これが本NGOの誇るべき特質の一つである。もちろん上下関係など一切ない。
講師の先生と連絡する、日程をすり合わせる、さて具体的に何をうかがいたいのか、なにについて論議を展開したいのか、受講する側で取りまとめて講師の先生とすり合わせる、適切な場所を確保する、広報活動によりなるべく多くの方々に参加していただく(単なる学生向け研修会に終わらせない、幸いにも、企業人やNPO 関係の方々もご参加いただいてきている)、そうして最初に御紹介したようなイメージ戦略が決定的に重要。
ブログみたいなICTの速報性を十分に活用する。他の地域諸団体との交流と連携、行政への働きかけ。内部の事務としては、事務局会議の恒常化と幹部メンバーの学習によるレベルアップ、有力な働き手の確保などなど。大変に多くの手続きと作業の連続である。
歩みは遅いかも知れないが、事務局の皆さんとともに沢山のことを経験しつつある。
新しいロゴマークに励まされた。初心忘るべからずだ。