2010年7月30日金曜日

NPOのちから=新しい時代の子は難産だが…

次第に地域に非営利活動法人の正式な登記を終えた活動的な団体が増えてくる。
NPOの時代である。新しい時代の曙光が見えてきた。
しかし、この次なる幕はなかなかしっかりとは上がらない。オーケストラ・ボックスではもう盛んに序曲を演奏していて、指揮者も楽団員も熱くなっている。曲もメロディアスで楽しげである。遅れた客があわてて自分の席に向かってゆく。それにしても豪華なドレスを着ているもんだ。
曲ははじめドーンと来て、あとの乗せ方がうまい。調子の良い時のモーツアルトである。
時代の閉塞を切り開くのは、行政や企業に加えて自主団体の強力な活動が必要だ。その通り!大向こうから声がかかる。
序曲は山場を迎えて、いよいよドラマの真のポイントを示唆し始める。意外な展開だという。なあるほど、楽しみはいや増す。わざわざオペラ座に足を運んで良かった。
しかし、まだ幕の向こうではコンコン音がしていて、時折ざわついたりしている。大道具を手直ししているのか。あるいは、出演者がもめているのだろうか?
気まぐれなプリマドンナがインフルエンザで咽をからしたのか。陽気なテノールが調子に乗って問題でも起こしたのか。まさか衣装を質屋にとられたのではあるまいな。
NPOは、未知の領域に踏み出さねばならない。始めてみて、管理運営にずいぶんとエネルギーを使うことに気付いた。これは驚いた。事務局会議を毎週木曜日の昼から2時半ころまで開催している。前半は純粋に事務的なあれこれを処理する。連絡事項、行事の確認、講師の先生のご都合、会場確保、広報宣伝(こちらはまだまだ弱いので改善を要する)、懇親会の手配、参加者の確認等々。
後半はたいていは勉強会に当てている。NIE=Newspaper In Educationの手法を用いて新聞記事をつかった政治/経済/社会面での勉強会や、経営学の基礎であるFramework思考や、就活への心構え、エントリーシートの書き方(これから予定していること)等々、また何でも率直に話し合う場である。
学生の事務局員は私たちの誇るべき戦力であり、現場で自主的に任務を担うことによって、どんどん成長していっている(OJT=On-the-Job Trainingすなわち「現場で学ぶ」である)。後生おそるべしだ。
序曲から本編がいよいよ幕開けとなる時期になっている。
ここは一番、慌てずに従来路線を堅持して進もう。
若い可能性を信じて行こう。世の中そう捨てたもんでもあるまい。
NPOで社会的企業を開拓してゆく。従来の「公」や「私」が埋めきれていない空間を補填(ほてん)し、開拓する。地域のコミュニティーを住民本位に強固にして、互いに配慮しつつ隣人の生活を支えてゆく。今日の文明度を背負った、高度な生活共同体の建設でもある。
それは文字通り、近隣の民主主義を実現する。Democracy of Neiborhoodというやつだ。

2010年7月23日金曜日

2010インターンシップ フェア@四国

7月22日午後6時から、愛媛大学校友会館で上記の催しがあった。
四国や当地でのまだ沢山の存じ上げていないNPOの先行メンバーの皆さんと名刺を交換させていただいた。
相談に訪れたのは大部分は松山大学の学生さん達だそうである。愛媛大学の学生・院生としては私たちの事務局で働いている方々の参加がみられた。いずれにせよ大学や専攻所属の壁を越えた試みである。
全体の大学側のコーディネートは、愛媛大学教育・学生支援機構の平尾智隆先生、NPO法人Eyesが担当された。この会、一週間前に連絡が来たのでびっくりだったが、盛況で何よりだった。
地元からは、ユニバーサルクリエートの米田佳代子氏、パエッセ合同会社の佐俣一志氏、徳島からは市民未来共社の畠 一樹理事、高知からは、KK四万十ドラマの笹倉玲於氏、人と地域の研究所から高橋こう貴氏[「こう」はサンズイに光]らが参加され、超短時間だがお話しできた(漏れている方々もあるかと存じます。自己紹介が十分できませんでした、ご容赦を)。もちろんこれが重要だが、四国経済産業局からは濱田氏が参加されていた。心強いことである。
こういう催しに新しい校友会館がとても役立っている。
発展の芽は至るところにある。私たちのNPOは、これからが正念場だ。

2010年7月22日木曜日

猛暑の連休だった

日曜日の午後には慌ただしく松山に帰った。予讃線の車中はほとんど寝て過ごした。
月曜日にはミュージアムの勤務に戻る。
朝方、卒業生がミュージアムにやってきてくれた。日ごろは大都市部で仕事に奮闘している。
大学の施設が大きく整備されて、在学中とは一変しつつあるので驚いていた。
連休に帰郷がてら寄ってくれたというわけであった。
暑中お見舞いを、どうかご自愛のほどを

ボストン美術館展:久しぶりに岡崎辺りを歩く

さて、日曜日は早朝に起きて、再び帰りの旅装を調える。
重い荷物は宅配便で自宅に送ってしまう。ようやく気楽に少ない荷物で歩けるようになる。
北大路までバスで行き、そこから地下鉄に乗り換える。岡崎の京都市立美術館に再び向かう。とにかく開館までにたどり着く。テントが張られていて、大体200名程が待ちの行列をきちんと作っている。お年寄りが大部分である。ひょっとして私より上の方が多数派かもしれない。大変な文化的需要である。
まもなく順繰りに小分けされて中に入ってゆく。
入り口近くは群衆となってしまっていて、奥はがら空きである。思いきって逆に奥から見ることにする。
マネ、モネ、ゴッホなど名品が並ぶ。モネなどは一番印象派を極限まで推し進めた人かも知れない。川沿いの遠景の都市のシルエットなど、それは既に街でもなんでもない。光の要素に分解された点の集まりである。抽象性が極めてたかい。
ゴッホのオーヴェールの風景はやや絵の具の色が綺麗すぎてピンと来なかった。たしかに展覧会の中に置かれると派手で見栄えがするが、昔オランダで見たややくすんだ色味とは違って見えた。クリーニングの問題もあったのかも知れないが…。
点数はそれほどでもなかったが、それなりに重みのある作品群を目にすることが出来た。
岡崎あたり、白川の流れ。疎水からの分流。近代の造作だろうがホッとする風景だ。

2010年7月20日火曜日

インターンシップ フェア@四国のお知らせ

NPO法人のアイズさんからご連絡をいただいた。
期日が差し迫っているが催しについてお知らせしておこう。
ポスターの画像が色々やってみたがアップできないので、文字情報で引用する。

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2010インターンシップ フェア@四国

この夏挑戦できる!!
四国4県のインターンシッププログラムが集合!

愛媛・高知・徳島県内での短期滞在型や長期実践型
などなど様々な業界・期間のインターンシップ情報を持って
各地域のコーディネーターがプロジェクトを紹介します。

去年の夏休みとは違う挑戦がしたいアナタも!
インターン…しといた方がいいのかなあなんて不安を
感じているアナタも。

まずはどんなプロジェクトか話を聞いてみませんか??
期間・プロジェクトの相談など個別にお答えします♪

日時:7月22日(木)18:00〜19:30
会場:愛媛大学校友会館2F(emica 横) 参加費:無料
主宰:学生支援センター平尾智隆、 NPO法人Eyes
お申し込み:info@npoeyes.netへ


以上引用終わり(一部省略)
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学生諸君が新しい将来の活躍の場をいかに地域において見いだすか、今後はこの方面のことが大変重要になるであろう。

大学とキャフェ

関西大学法学部に所用があり、鉄道の旅をおこなう。
7月16日朝、JR松山駅から9時過ぎの特急「しおかぜ」に乗る。梅雨が終わった。
気温が上がり始めている。
必要があって自分の文献を読み直さねばならない。車中の仕事である。京都に泊まる。
翌日、大阪府吹田市の千里山に近い関西大学に行く。今度は阪急の準急と特急を乗り継いだ。京都の西院から高槻、茨木を過ぎて淡路まで京都線である。淡路から千里山線の列車に乗り換える。京都線と千里山線の乗り換えにはかならず東側から西側へと地下連絡道を通らねばならない。40年前と変わらぬ風景である。それにしても久しぶりに京都からアクセスすると、両都市の距離が意外に大きく感じる。自転車で事が済む松山での暮らしと大きく違う。関西にいたころは京都と大阪の距離など意識したことはなかった。慣れとはおそろしい。
丘の斜面に展開している大学に向かって猛暑の中をのろのろと歩む。学園前で昼食をとらねばならない。冷房の効いた列車に長い時間乗っているうちに見事に食欲はなくなっている。ともかく…、と、カフェを探しながら緩い坂を登ってゆくが、なかなか適当な店がない。ラーメンだとか、どんぶり屋ばかりだ。ほとんど正門の直前まで行って、ようやく一つあった。入ってみる。院生らしい若い男性がしきりにコンピュータでレポートを打っている。この辺のキャフェで昼飯かなにかを食べながら、友人とこんがらかった議論をしていた何十年前と変わらぬ雰囲気だ。
もちろん当時よりこの店はうんとセンスがいいし、しゃれている。
先をせいていたからか、カメラを持っていながら、映像をとる余裕を失っていた。幸い親切なマダムで、プチパンのサンドイッチを手早く作ってくれた。アイスコーヒーといっしょにおいしくいただく。
学生街であってもやはりキャフェ文化は衰退しているのであろうか。家主の関係で、もうすぐこの店も閉めるという。開店早々なので、残念だとおかみが云う。ざっと見てもキャンパスに近いところで駅から歩いて、まともなっていうか、雰囲気のあるキャフェはここ以外に見つからなかった。残念な現象だ。誰も彼もが息せききって、走って暮らしているのかも知れない。
成績表の優の数などほんとうはどうでもいいのだ。大学人がこんなことを云うとおしかりを受けるかも知れないが、突っ張って主張したくもなる。内実のある勉強の方が大事だろうと。もっとも、どうやってそれを成し遂げると聞かれると、うーんと詰まってしまう。方法論が展開しにくい。開き直れば、万能のコツなどあるわけがない。
要務は一時間で終わる。
法科大学院がおかれている一角を通って、岩崎先生の彫像を写真に収めて、裏口から千里山駅にぶらぶらおりていった。大学の中では緑の木々と赤レンガ風の化粧タイルが対照的だ。キャンパスを出て、大学院生の頃、一時下宿していた一角を通りすぎる。デイケア・センターと看板がかかっていた。千里山の住民も老齢化しているのだろうか。この手の施設の看板が他にもいくつかあった。緑の千里山も40年ほどの間に大きく中身を変えてきたのだろう。日本全国、かくの如くかも知れぬ。こうして生きてきた私も、かくあるべしから、現状はこれこれ、しからば如何にという現実対応型に変貌である。君子でなくとも豹変せざるを得ぬ。
時間があるので、急いで岡崎の京都市美術館に向かう。ボストン美術館展である。丁度、祇園祭の宵山だったが、そっちは、晴れがましいというか、まぶしいので敬遠した。要するにこちらの精神状態がお祭りを受け付けない。
四条烏丸から地下鉄を乗り継いで、東山駅に着く。幸いロッカーがあったのでほとんど何もかも放り込む。そこからとぼとぼ歩く。午後の最高気温の頃であろう。白川をわたる頃、しまったとなる。これが第一のミス。カメラまでロッカーの中であった。東山が迫って見える。えいまあいいとあきらめて、巨大な朱塗りの鳥居の横、市美術館にたどり着く。このあたり自分の京都のイメージとは大きく違う。要するに国家権力が古都京都のイメージ作りを手伝ったのだろう。市の美術館はいやに古い建物である。券を買って中に入ると、駄目だ。高年齢層の数百人が入場制限をうけて滞留しているではないか。これが第二の大きなミス。考えてみれば当然だ。重みのある催しが極めて少ないとなると、じゃあボストンにとなる。マスコミの事前の報道も効いている。
係のひとに、買った券はいつでも使えることを確かめて、明日にすることにした。
あとは妙に気楽になってすたすた帰った。外国人の二人連れが道に迷って通行人に質問している。そんなのを何組も見た。道路案内の標識がほとんどないに等しい。
高級マンションが軒を連ね、そのフロアーはかならず高級な骨董屋である。骨董品といってもすべてぴかぴかで清潔に輝いている。宝物というとジャンク的な塊の中にこそあるというこちらには、妙にひっかかるが、まあいい。それも浮世だ。
岩崎卯一先生の彫像、政治社会学の先駆者である。  法科大学院の重厚な建物。

2010年7月13日火曜日

毎日新聞記事から

毎日新聞の地方欄に選挙結果に関するインタビュー記事が掲載された。聞き手は同紙松山支局の中村敦茂記者。


識者に聞く
「政治とカネ」「沖縄」「地方分権」置き去り
岡村 茂・愛媛大学名誉教授
(政治学、地方分権化改革)=66歳

争点を消費税にそらされて、政治とカネや沖縄の問題が突然消えてしまった。政治心理学的には、「これでいいのか」と心にひっかかりが生まれ、根本的に燃えることが妨げられてしまった。

税収欠損に対策を立てるなら、菅直人首相は、野党ではなく、むしろ腹を据えて国民と深い議論をしなければならなかった。昨年衆院選での対話型で国民の期待を高めていく選挙戦略とは、大きく違った。民主党内は既にがたついており、内紛体質を克服できない限り、党再編など重大な結果が見えている。

愛媛選挙区では、山本さんは保守地盤があり、選挙に慣れ、首長と組み、良くも悪くもベテラン政治家。一方(社会保障に特化した)岡平さんの政策はすこし寂しく、単一政策課題の候補、との印象を与えてしまった。地域の参議院議員として全体を見渡すという山本さんの打ち出し方が県民の心をつかんだ。

岡平さんは、社民党からのくら替えも、ネガティブな印象があったと思う。あえて民主公認である意味があったのか。無所属ではいけなかったのか。擁立にかかわった小沢一郎党幹事長(当時)のやり方は、いつも最後のワンポイントで国民に説明がなく、たとえ善意を持っていたとしても損をしてしまう。

広域市町村合併で、旧市町村の草の根自治が脅かされている。基礎自治体が担う「近隣の民主主義」を再活性化させる施策は国がやるべきだが、地方分権のテーマは今回、置き去りにされた。日本創新党の中田宏氏などの動きがあったが、系統的な分権化と国政とのつながりを押し出せなかった。
(毎日新聞7月13日付け、引用終わり)


以下、補足の論評を加えておこう。
岡平さんは当然民主党候補者としての最初の挑戦だった。
山本氏35万に対して、25万票であった。善戦だったともいえる。他党を含めて国政レベルで発言できるアクターが増えてゆくことは良いことだ。日本人の「非政治主義」は、ますますもって世界の流れに反している。日常、茶の間での政治談義がもっと熱を帯びなきゃ駄目だろう。お任せしました、政治家さんしっかりやってちょうだいでは、政治の世界はいつまでも鈍感なままに留まるだろう。
より重要なことだが、参議院「地方区」の意味合いが分からなくなっている点である。これでは巨大な小選挙区制であろう。
それと当たり前のように新しいいくつかの党から「小さな政府」だとか、国会議員の定数削減が政策上の目玉として打ち出された。党首討論会などでもしっかりした反論は少ない。公務員叩きとも通じるものである。
特権を享受している公務員など、国家行政機構における頭頂部のほんの一握りである。国や国に準じる独立法人の職員の日常生活など、実に地味なものだ。公務員=悪=税金の乱費という単純図式は政治的議論の幅を狭めてしまい、反論を許さない重苦しいタガとなる。廉直な多数の勤め人を無視するのは正しくない。
小さな政府という言辞の底の浅さも指摘しておきたい。それなら大きな政府がいいのかと来るが、そもそも何に税を振り向け、どの分野に専門の職員を配置すべきかという原則論が脱落している。この種の議論の根底には、福祉はかねがかかり人手を食うからそれは民間に任せてという古い議論がちらつくから要注意だろう。国会議員の大幅定数削減論などは大政党の看板を掲げておきながら余り仕事をしていない議員を沢山抱えていますと云わぬばかりで、ややこっけいである。
国会議員の職務遂行の透明性を確保してから定員問題は論じるべきであって、我が身をまず犠牲に供してはじめて国民に痛みを分かち合ってもらうことが出来るというお涙ちょうだいは、全く以ていただけない。
国会議員から範を示してというのは、なにより自ら身を挺して国政の任に当たることであり(民主主義の発展を阻んでいるタブーへの挑戦と国民の苦難を軽減する政策の調査立案)、定数を減らしたからといって直ちに国民が感激するわけではない。
二大政党制も水戸黄門の紋所みたいに振り回されるが、本家の英国ではとっくに保守と労働二党の支配体制は崩れてしまっている。英国の政治状況が理想的とは言わぬが、時代ははっきり変わりつつあるのではないか。出来の悪い一党独裁は絶対に不可だが、出来の悪い二党制もそれに劣らず民にとっては不幸の種である。

2010年7月12日月曜日

参議院選挙が終わる

激しい参議院選がおわり、各党派の勢力配置も明らかになった。
小澤ガールズも今回はそれほど勝てなかったみたいだ。しかし、小澤氏のことだから次回、またその先と、衆参おりまぜて深謀遠慮があるのであろう。選挙区での死票もひどく多いし、一票の格差もひどいものだ。これが最善の選挙システムとは考えられない。
自民党は揺れ返したのか、かなりの議席数だ。ある有力紙の論説で、自民は勝ったと思ってもらっては困るとあった。相手のミスによるいわばオウンゴールだというのだ。今後の推移に注目だ。
これで、皮肉にも自公政権の末期にその国会運営を悩ませた衆参のねじれに、今度は民主党が神経をつかうということになる。まったく回り舞台のようである。
政権の動向にかかわりなく、地域の振興は待ったなしの普遍的な課題である。
選挙についてのインタビューをとのことで早くから約束していた記者さんが今朝やってきた。1時間半ちかくであったろうか、リラックスしてお話できた。この2週間はTV番組を出来るだけ見て、新聞記事を詳しく読み続けた。今朝も地方紙、全国紙をコンビニで買いそろえて、選挙結果をうけた各紙の論評に克明に目を通しておいた。
若手の記者さんとは意外に話が発展した。
流石に、マスコミの方々はNPOの動向などにも敏感である。
政治は時に混乱し、荒天の小舟のようなことになるかもしれない。ニッポン丸も航路が決め難いだろう。
論理的には飛んでしまっている。またこれは手前みそは重々承知の上だが、やっぱりこれからは、NPOの活躍次第だろうと確信した。
地域を活性化するのには市民が取り組みに乗り出す以外にない。個人では限界がある。行政では縛りがきつすぎる。だから非営利団体NPOの出番である。NPOが仲立ちして大学人と地域住民と行政がスクラムを組むことだ。人材を養成し、新しい公共をになってゆくソーシャル・ビジネスを興して、雇用も生み出し、地域の生活上のファシリティも向上させてゆくことである。学生諸君はもちろん、地域の各年齢階層の中には沢山の才能が眠っている。もったいないの一語に尽きる。
最近はNPOの幹部だったという候補者が各党の中で増えている。しかし、地域の市民活動の現況を物語ってか、上記のような正攻法の議論をおこなう候補者はあまり見当たらなかった。
NPOの活動の実質化、大規模展開が必要であり、単なる肩書き製造所になってはならない。豊富な事業内容、強い財務体質、沢山の雇用の創出、新しい公共をつくりだすこと。それこそ今後の展望なのだ!
各種選挙公報やビラ
選挙結果を特大の活字で報じる各社

2010年7月8日木曜日

パリでちょっと一服

パリの時間は何が何だか分からぬうちに、慌ただしく過ぎてゆく。中心部の観光スポットはしょっちゅう人がいっぱいである。
報道によれば、パリのキャフェも最近は相当閉じられている様である。たしかに水物では採算がとりにくいだろう。一般に大街路の交差点には必ずキャフェがあり、大型のキャフェでは例外なく相当の食事をとることが出来る。典型的なフランスの食事は、奇をてらう偉大なるシェフが君臨する上等な店では口にすることが出来ない。これは貧乏留学生の貴重な経験則である。
私にとってのフランス料理はそれこそキャフェでの軽食の中にこそあった。
もちろん、あのステック・フリット[ステーキと小山のようなフライドポテト]は、毎日食べていたとしたらきっと健康に何らかの兆候が出ただろう。幸いこちらは胃が小さいし、ポケットマネーもありゃしない。
その後、出張かなにかで、短期勝負になると利便性から有名店にも入る。
特に、たまに友人と共にすこしおごって、キャフェ・ドゥ・フロールあたりの見晴らしの良い席を占め、昼食にサンドウィッチを頼むと、実に大きいのが来て、とてもおいしいものだった。廻りには盛んに原稿に手を入れている作家風のじいさんが仲間としゃべっている。この近辺は、今でも名うての出版街でもある。彼のドラフトは散文ではなく、なんと詩文みたいだった。詩人の傍らで食事する栄を賜ったのだ。書物とキャフェと軽やかな散策の楽しみ。どこをとっても完全に調和がとられ、興ざめた破綻がめったにないような街区の風景。

上は2006年の調査旅行で泊まったホリデーイン。 下はガラス越しに街がみえるパンテオンのキャフェ

ローザ・アブルー財団の研究者用宿舎、この最上階で2年余り過ごした(82年から84年)。
フランス地方館、大型の寄宿舎である。
ロックフェラーが寄付した、シテユニヴェルジテールの中央館


近くのオランダ館

2010年7月6日火曜日

歓迎、研修留学生のみなさん

二週間という短期間の研修留学の合間に沢山の方々がミュージアムを訪れて下さった。
短い時間だが、ミュージアムの全体をみていただいた。
日本語は全員が専攻していて、言語的にはすぐ意思が通じる。ロビーで皆さんにこんにちは!、と挨拶。
出発国は、中国、タイ、それにトルコからである。
トルコからの学生さん達とミュージアムの案内のなかで言葉を交わすことができた。アジアとヨーロッパが接するイスタンブールからだという。地中海と黒海がまじわる海峡は、私たちにとっていつの日かはいってみたいところである。NHK特集の画面が目に浮かんだ。
皆さん、明るくてしっかりとしている。留学生のそれぞれが冷静にゆっくりと正確な日本語を話す。そこにはアジアという共通の基盤が感じられた。難しいタームは英語で補った。
ほんのわずかな対話だったが、貴重な国際的な場面であった。
法文学部の学生さん達が先頭に立って案内し、マネージメントをおこなっていた。その点にも感心した。

どちらを向いても緑一色

NPO法人を運営していると各種の公的な報告書や社会保険等の手配が必要になる。もちろん、雇用関係がまだ生じていないので、その旨を申告すれば事はおしまいであるが。いずれにせよ、法人格を持っていることは半端ではない。幸い、事務局長は実務に明るいので、助かるが、ともかく一つ一つが勉強になる。
このところ気温がようやく上がり調子となる。梅雨明けも近いだろう。東京や各地は突発的な集中豪雨だったという。
ミュージアムの中庭の芝生も少しずつ丈が伸びて来つつある。
伸びすぎにならないように少し手入れをしている。テスト段階だが、手押しの芝刈り機で切ってみたりした。
このところの作業は一段落状態になった。そこで芝生を主役にカメラを向けた。
どちらを向いても均一な緑の中庭にするようにした(完全ではないが…)。
意外にフォトジェニック(写真写りが良い状態)である。
古くからの友人が沖縄の国立大学での勤務から京都の私学に転じた。丁寧な書状とともに写真が入っていた。1982年にパリ政治学院に留学した直後の事である。かれは英国に短期研修に行く途中、パリに寄ってくれた。二人で町中を散々歩き回った。そのとき政治学院の中庭でとってくれた写真が出てきたといって送ってきてくれた。いまより30才ちかく若い、髪をややのばした細身の私が写っていた。大きな眼鏡をかけている。10月半ばから授業も始まり、想えばあれからフランス語や日常慣習の違いなどでひどく苦労した。それでも良い経験だった。
緑の芝生をじっと見ていると癒しの効果もあるのだろうか。友人はいつも私を助けてくれた。リュクサンブール公園は、いまどんな風だろうか?二人でまたパリを散策したいものだと、彼は書いている。同感である。

2010年7月2日金曜日

地方分権問題学習会に参加しました

愛媛大学地域創成研究センターが年5回の割合で催している「地方分権問題学習会」を傍聴する(2010年7月1日)。今回の報告者は滋賀大学経済学部の 宇野隆俊氏であった(以下、氏の報告レジュメおよび私の聞き取りメモから。筆者の専攻はフランス地方政治であり、専門外の事だったので、理解が十分でなかったかもしれない…)
県下の自治体職員や教員が参加して、定刻にはセンターのセミナー室が満席となった。
論題は「「平成の市町村合併」と都市内分権〜上越市の地域協議会の試み〜」というものであった。
宇野氏が行われた報告そのものと、その際に配布された資料を紹介しつつ、感想を記しておこう。
全体として、「都市内分権」というタームがキーワードとなっており、「基礎的自治体をいくつかの区域に分け、それぞれの区域のなかに自治体議会とは別個の意思決定の場を置き、ここで当該区域に関わる一定範囲内の公共的な課題を議論し、合意に至った決定に公的な拘束力を持たせようとする構想」であると基本コンセプトが示されていた。
改正地方自治法では、地域自治区や地域協議会の仕組みとして示されている。これは市町村合併による「遠くなる自治」すなわちフランスなどでの言い方では「近隣性の喪失ないし危機」に対応して、行政側としても「身近な地域社会」を法制的にも保障し、活性化しようとするものであろう。
具体的には氏の調査された上越市の事例が詳しく紹介された。
ここでは、ざっと見て中学校区にあたる旧町村規模の地域自治区が形成され、審議機関としては地域協議会がおかれ、旧町村役場の小型版として地域自治区事務所が置かれた。
合併前の旧上越市は、15の区に分けられ、合併前の旧町村はそのまま13の区になった。都市域と周辺地区との人口力の差異が目立った(合併前の上越市高田区では、3万の住民がいるのに、おなじく北諏訪区では1695人、旧13町村基盤の区では、大島区の2098人と云う風に人口の差が極端である)。
委員は準公選制で、民意を受けて市長が任命する。これによって「委員に一定の代表制と正統性を与える制度」であると氏は説明されている。
地域協議会の権限は第一に市の側からの諮問に対して答申し、第二に必要と判断された事項については自主的に審議し、市長はじめ市の側に意見を述べうる。
自主審議は報告を聞いた限りでは活発に行われているようである。また、市長の側も年間2億円の資金を投入して、「上越市地域活動支援事業」への提案を募集し、採択基準の策定に各地域協議会が積極的にコミットしているとのことであった。採択された案件は、NPO、個人、自治体に実施方を委嘱することが可能であるという。新しい公共の創出という意味からも注目すべき展開である。
都市部の住民の中には公共的な予算を市議会の統制が及ばないかたちで費消することへの抵抗感があるという。旧町村の指導層がくわわった地域自治区による公的資金の使い道の透明化がどの程度しっかりと区分けされ、良い意味での「近隣の民主主義」が確実な内容を備えるのか、上越市などの実践例の今後の展開は興味深いものがあると思った。
また逆に、専攻としているフランス・サルコジ政権下での地方行政改革のうち、特にコミューン統廃合の動きを理解する上からも、重要な論点が沢山見いだされたことを付記しておきたい。
質疑応答では実務家を中心に沢山のコメントを聞くことが出来た。調査活動を展開されているベテラン教員の指摘も興味深いものであった。
全体として、地域活性化にかかわるNPOの運営上も、こうした地方自治最前線からの実態報告は、深く大きな領域がそこにあるという強い想いを私たちに投げかけるものだった。