2010年3月13日土曜日

参っている時どうする

一時期、がむしゃらに翻訳し、論文を書いた。一冊のささやかな著作を出すことが出来た。
しかし、あまり幸福感を覚えない。達成感がそれほどない。贅沢な悩みだとおしかりを受けるだろうが、事実だからしかたない。
その後、現状分析に必要だろうと別の政府報告書を訳読しつつある。困難だが、仕事をしているというなにがしかの手応えがある。これが今の救いだ。
それにしてもこの心のうちの暗さは、なんなのだろうか。
京都に泊まっていた。悪天候だった。しかし、街区の閑散ぶりにはより一層、驚いてしまった。土曜日の朝9時半、バスの経路の加減で、千本中立売りでおりてから堀川通りに向かって東に歩く。中立売の通りにほとんど人影はなかった。これは現在暮らしている松山の住宅街を歩いても、そうなのだろう。なにも京都に限ったことではないのかも知れないが…。しかし、地域の疲弊ということからながめると、首都圏への過剰集中ということの裏返しで、全国的にとんでもない状態なのではないか。関西とても例外ではなさそうだ。
良く手入れされた京町屋の角に、聚楽第(じゅらくのてい)跡だという石碑を見いだした。ここから北西にかけて広壮な太閤の構築物が打ち並んで居たのだろう。つわものどもが夢の跡だ。
この日はうっかりしていてカメラを持参していなかった。小雨のなかだったが辻ごとに特有の情緒がある。
堀川通をこんどはしばらく南に向かう。
大通りに面した小商店はバスの窓から見慣れた光景だが、実際にこのへんを歩いてみたのは初めてである。ご老人がとても多かった。母が生まれたのは三条堀川であるから、ここよりもう少し南である。
早々に戻って、こんどは首尾よくバスをつかまえて帰った。
悪天候は今日まで続いている。
さて、週末の疲れを癒そうと音楽を聴こうとした。アイチューンのお陰で簡単に小さな卓上音楽会が楽しめるのはいいが、元のCDを仕入れた頃の生活ぶりだとか、あるいは亡くなった人々までしきりに思い出されて、苦痛になって止めた。ベートーベンもバッハも聴く側が気力がないとどうもいけない。逆に言えば、相当の圧力をもった曲ばかりなのだろう。いかな名曲も聴く側の受容する姿勢がなければ、押しつけがましい、しつこいものとなるのであろう。これは教育の場でも重要なモメントかもしれない。
実際、精神的にひどく疲れている。
純粋に打ち掛かる相手=原文がある翻訳など、精神的に癒しの効果があるのだろう。横文字を解読しているときだけ、なにがしか一生懸命な自分が感じられる。
散歩も必要かもしれない。
目的なしにただただ歩くということである。
さて、さらに参っている時どうする?
*高瀬川も久しぶりだった。こちらは日曜の朝方。

おいしいものを食べる。気心の知れたひとと盛んにおしゃべりする。じっくりと名著を読む。景色の良いところを散策する。思い切って遠くに行く(ただしお金がかかるが…)。昼寝をしてしまう。テレビで、たとえばWBGHかなにかの良くできたドキュメンタリー番組を視る…
幸か不幸か、酒にたよる体力はない。貧しい生活だが元気だけは失いたくない。癒しのレシピは今後ふやしてゆかねばならぬ。ここにもたくましい智恵が必要であろう。これからの課題だ。

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