2010年3月4日木曜日

就業・起業準備はじめのはじめ=筆記用具(2)

勤勉に書き記すということは万物の基礎である。書くということは、いわゆる就活と社会的起業の基礎である。自分自身の出会ったことや思いを具体的に実現してゆくための自己管理の続きなのである。

われわれの学生時代というのはほとんどが鉛筆と万年筆であって、ボールペンは最初は飛びついたが、経年変化で油脂が紙に染み出し、駄目だった。現在のようなとりどりの最新技術を駆使したボールペンはそんなことはとっくに克服している。実務に役立つし、頼もしい味方である。この場合もあれこれ浮気せずにこれ一種類というのを選んで、愛用すべきだろう。老婆心ながら。というのは、課金式のカードと同じだろうが、使い切らずにほうってあるのが沢山身の回りにあるからだ。ポイ捨てを原則に開発しているし、それを前提に使う側も書き心地を気にしない。こうしてわれわれの知的環境は荒廃するのだ。そうした傾向には断固逆らってゆかねばならない。
さて、前回はシャープペンの話だった。今回は万年筆。
執務するうえでわれわれより上の世代はこのインクとペンで苦労しているはずだ。大作曲家が、羽ペンで力んだ表情をして肖像画に描き表されている。ベートーベンもこの動物質の軟弱な先端で、五線譜の上に何もかも書いたのだろう。羽ペンは先端が時間とともに消耗し、先をナイフで削りながらインク瓶に突っ込んでは、さらに書き進む。
この先端部を金属で置き換えたのが、付けペンとかGペンという代物である。
最近は中学・高校生の英語もとことん活字体でいいらしいが、我々の頃は流麗な筆記体が必修だった。ただこの出所はいささか怪しいらしくて、正書体とわれわれが思い込まされていた面もあるらしい。そうだとすれば、小さい頃青い沢山の線と一本の赤い線を標準に悪戦苦闘したのは何だったんだと云いたくなった。外国の友人達の手書きが活字体とか筆記体が混じっていて、また崩れていて色々なので解読には苦労するが、英語をするまえに筆記体の手習いからはじめるという日本人の格式礼儀の文化がここにも出ていて面白い。
まあそれはいい。
万年筆にはある種の恨みもある。つまりしっかりした製品がやたらに高価だったからだ。
しゃれた人は悔しがって国産品にモンブランのインクを入れて使っていた。しかし要注意だ。肝心のときにインクがぼた落ちする。自社の万年筆に合わせて開発しているのであって、他社のペンにいれていただいてもお客様それは…、となる。
私事にわたるが手元に一本の赤いパーカーが残っている。父の遺品である。
結局はわたしもモンブランに落ち着いた。もっと太いのもあるというが、手の小さい私には第二番目のモノがぴったりだ。インクは吸引式でピストンがボディー尾部の回転によって引き込んでゆく。一回分でかなりの字数を書くことが出来る。万が一、原稿用紙(使わなくなったですね…)や年長の先生方への書簡は、どうしても万年筆でいきたい。
インクは、正確な商品名はなんというのか知らないが、黒と淡いブルーとブルー・ブラックとあるが、最近は第三番目のに決めている。
インク瓶は伝統的にフタに近いところがくびれた形態だったがスタイルが変わったという。インク瓶という風格は旧来のバージョンの方が良いのでは、と思ってネットを見てみたら、クラシックなのがまたまた復活していた。きっと要望があったのだろう。
原稿を本格的に大量に書かなければという段階になって、コンピュータが普及してきた。
だから我々の世代は、こてこての万年筆派とコンピュータ[当初はワープロ専用機という不思議な機械もあったが、私は使っていない]派に当初別れて、のちに後者に大部分の人々が合流したはずである。
最近この万年筆の機能を見直している。キーボードでカチャカチャ打つのは能率はいいのだが、なにかその後の達成感というか、責任感が希薄になるみたいだ。インクのしみだしをぬぐいつつ、丁寧に紙に向かって一字一字書いてゆくと、やはり違うなと感じる。
それではなぜノートをとるのか。実利的に何月何日にこれこれだというばかりでなく、相手の話の要点を記録するという精神活動は微妙にすべてに響いてくるのではないか。理解力の鍛練である。
勤勉に丁寧な字(行書でも草書でもご自由に)でひたすら書いてゆく。クリエイティブな精神は所詮そうした修業の向こうにしか見えてこないのかも知れない。

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