2010年3月10日水曜日

デジャ・ヴゥ考=えらい人とは自分の言葉で語ろう

私用で京都に滞在する。
休暇のつもりだったが、そうは呑気に行かない。食事をCOOPに買いにいったり、大型書店に寄ったり、結構忙しかった。
それにしても一貫して悪天候で、最後には雨になった。春先の降雨だが、湿っぽくてそのぶん寒さがしみた。それに何より、三方の山々がはっきり見えなくて残念だった。
ブラックの『プラトン入門』(岩波書店)が内山勝利のよくこなれた翻訳のおかげだろうか、面白い。そのほか、予讃線の車中からフランス市町村長の日常を描く文献も読み始める。表題に引かれて取り寄せたものだが、間違いなくしっかりした一冊を手に出来たので喜んでもいる。しかし、滞在中はたちまちこの解読に苦労な外書は放り出して、プラトン入門に集中した。
                                       *特急しおかぜが本四架橋を渡る時だけすこし晴れた。




週末だったのでテレビもさして面白いものはない。
ただ、あてもの的な番組だろうかテレビからデジャ・ヴゥ[既に見たという感覚、既視感とも]という言葉が聞こえた。日ごろこの言葉のカタカナ表記が気になっていた。番組では、デジャ・ヴとなっていたが、原語はdéjà-vuだから表題の様にせめて書きたい。カタカナ表記の限界は心得ているとしてもである。ひどいのになると、デジャ・ブと堂々と書かれている場合があり、うるさいことを云うつもりはないが、どう見てもおかしい。
小さい頃から聴覚だけは良かった。音楽の才があるという意味ではなく、小さい音を明瞭に聞き分けられるという解像度がたかい耳である。もちろん、人がこっちの悪口をひそひそ云っているのが聞き取れてしまい困るということもある。クラシックの静かな曲を良い再生装置で聴くのも好きであるが、肝心の基盤整備のための投資は貧乏で出来ていない。この良い演奏を良い音でという潜在的な要求は自分の中で非常に強い。
強い聴覚面での感覚の偏重は、あのことはどこかで聞いたことがあるのだが…という、音声記憶面での「デジャ・ヴゥ」に悩まされる結果ともなる。記憶は音源に結びつき、そして不確かになるとともに「はてさて、あれは何のことだったかな、誰のはなしだったかいな…」という、「デジャ・ヴゥ」とはいってはならないのかもしれない、いわば「既聴感」に悩まされる結果になる。「既読感」というあやふやな記憶の問題にも悩まされる。どの文献のどことは分からないが一節だけくっきりと覚えているという厄介なハエみたいなものもちらつく。そのため最近読んだ本を中心に一日中探し回っていることもある。困った性格だ。
決まり文句にはひとは最初はつきあってくれるが、二回目はまたかいなと思われ、おしまいには愛想を尽かされる。くどく云うのは私ども年寄りの常だが、これはいい加減に自制しなければ本当に嫌われ者になる。
連想が止まらないが、決まり文句といえば、フランス語にもいろいろあって、stéréotypeステレオティプだとかclichéクリシェとかである。lieu communリュー・コマンという表現もある。最初のは、「鉛版印刷」を連想するし、二番目は辞書によれば同時に「写真のネガ」の意味だそうで、三番目は良く云えばコモン・センス[常識、良識]だろうが、直訳すれば「共通の立ち位置」というのだろうか、十八番[おはこ]のはっと決まるいつもの表現という「からかい・ちゃかし」も含んでいようか。
何でこんなことにこだわるかと云えば、面接で堂々と自説を展開することが苦手なひとが多くなっているからだ。
決まり文句の宣伝みたいなもので世の中は溢れんばかりだ。企業も行政も大学もわたしの売り物はかくかくしかじかだという。その場合、売り込む文句は大体、その筋の業界人やベテランの考え出したものが多い。大組織が練った形で出してくるキャッチフレーズは良くできている場合が多い。しかし、個人がそのままそれを援用すると歯が浮いたような賛辞になる。借り物は借り物の器の大きさでしかない。
貴社は、御社は、これこれしかじかの理念をもたれ、社会的にはこれこれの実績をあげておられて、云々とリーフレットにある通りのことを述べても相手はちっとも感動してくれない。相手が聞きたいのはこっちの考え方だ。先日の坂本教授の講演会でもはっきりとこのやり方は駄目ですよと釘をさされた。
抽象的な売り込みの文言をこちらに引き寄せて、自分の実体験のなかで相当することを押し出すことはせめてしておきたい。場合によっては批判することもあえて行うべきだろう。もちろん相手が誇っていることに挑戦するのだから礼儀正しく評価点から先行して述べつつ、さてしかし、こういう視点からマーケットを業態を見直してみてはどうだろうかという代替案を押し出す、「実質批判案」でどうだろう。企業もその他の組織も骨のあるのを求めている。意味のないケンカを売るのは下策だが、果てしない順応や主体性のないへつらいがコンニャク人生に繋がるならばどこかで、区切りをつけるべきだ。

H&Mが大阪に進出という。家具ばかりではない。質実剛健の簡素な北欧デザインの産品がひたひたと押し寄せてくる。



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