2010年8月11日水曜日

錯綜した歴史的な意識

どうも我々は明治維新を起点にしてモノを考えるクセがついていて、王政復古で勝負あり、幕政のたそがれはなになにという風に、単純に区切りがちである。
ところが実際はもっと歴史は緻密に事実の連鎖としてあって、つまり、福沢だろうと龍馬だろうと、大村であろうと、市井の江戸っ子であろうともほとんど同時進行でいろいろな出来事を経験しているわけである。
人々の塊ないし集団がゆっくりと、あるいは急激に世界史の大運動の一部分として、我が国の近代化に向かって怒濤のように流れ込んで行くのである。いわば、集団の歴史的運動が、時代史として抽象化されて意識されている。
出来事は鮮やかに時代を象徴する場合が多いが、単一の事件、事変、戦争などは、その時代のすべてを表しているわけではない。第一次大戦といっても、われわれはざっくり歴史の流れを掴むために言っているのであって、開戦時と後半とではきっと何十年もの歴史を凝縮し洗い流してしまうほどの変動を社会のレベルにおいて刻印しているに違いない。戦争は強引に社会を変えて行くとも言えようか。
今回は龍馬について随分考えることになった。テレビ放送のおかげもあるが、大体においてこのあたりの歴史に引かれていたこともある。

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