2010年4月12日月曜日

新教養主義へのアプローチ

最近は「教養」ということがひどく人気がない。若者の活字離れも深刻である。この点、紙媒体の新聞の危機といった観点からも改めて取り上げる機会もあろう。
まじめな知的活動を挫(くじ)くような発言がその方面のプロからも行われるという悲惨な状況である。
社会階層の上昇儀礼としての古典的な教養の社会的な機能が終焉(しゅうえん)したのだという論点で、えらくマスコミ受けした大学教員がいた。もちろんマニアックなお宅族の大量生産はいただけない。しかし、あっさりと「教養主義」は切り捨てられるものか。おもわずうなってしまう。社会的な通過儀礼(受験と社会的地位の獲得)と教養をたかめる行為(人生という長いスパンでとらえるべきこと)とが無造作に連結されていて、前者のついでに後者も葬られたのでは珠玉の古典も浮かばれまい。もちろん、形式知としての「教養主義」と社会や人生の難問に立ち向かってゆく勇気を養う「教養」とは区別すべきなのかも知れない。後者は後ほど触れる「読解力」に連結しよう。まあ、むずかしいことはいい。
そんなこんなで古典の価値をもう一度見直してみようと最近は思い始めた。つまり、「フランスの分権化改革とその帰結」というライフワークはそのまま追求するとして、複眼的に古典的な諸作品の見直しをしてみようという試みだ。「教養の擁護」をあえてドン・キホーテ的におこなってみよう。少々間違ってたってかまやしない。暴論だということなら訂正していけばいい。自由な精神がしぼまないことの方が大事だ。読み散らすこともあまり性に合わない。早読みの方ではないからだ。
まず、大学院の講読の時間にホッブスの『リヴァイアサン』をとりあげた。ほぼ一年かけて院生達が各章を読み解き、報告してくれた。用いたのは中央公論社のクラシックスだったが、この赤い装丁の新書本はよく訳がこなれていて、読みやすかった。原文は中世英語の色合いの濃い難解なもので、むかしむかし丸善の店頭で手に取ってまったく分からないので閉口し、買うのをやめたのを覚えている。野心的な大学院生一年目の頃である。
翻訳を丹念に辿ってゆく。内容は個々の論点が十重二十重に論証され居て、じつに面白かった。原著はおそらくサロンや僧坊での活発な議論を背景にしているのであろう。集団的討論の雰囲気を論述のそこここに感じた。
また、あまり堅苦しく論じたくはないのだが、洞窟の中に置かれた人工的な神像へひとびとはぬかずくという有名なくだりは、この本の中でそれほど重要なポイントになっていないということを改めて発見。ホッブスといえば洞窟のイドラ(偶像)という固定観念は、見直しが必要だったいうことである。精読の意義が十分あった。また、一旦(いったん)国家を組織したからには、人はその指示するところに絶対的に従うべきだという命題は、自然状態(人間が人間の狼である状態であり、したがって、自滅してしまう危険性を帯びている。だから人はそのもっている権限を社会を代表する人士や議会に「全面的に」預託する)の克服ということからなかなか容易には導出できない。ホッブスの本書は、その点、終始果敢(かかん)な挑戦を行っているが、時代的な制約はやはり巨匠としても乗り越え難かったのが、興味深く読み取れた(因に、高校時代の河野先生のお陰でわれわれは社会科学への入門がはたせたのであった。先生の原文の解読に基づくイギリス経験論の歴史的な展開は、若い感性に強烈な印象を与えた。達意の英語の読み手であったのであろう、Marxは先生によって、「マルクス」ではない、確かに「マークス」と発音されていた)。
個人的な読書としては、今年に入ってから手始めにツルゲーネフにとりついた。丁度、復刊本が出回っているので都合が良い。『貴族の巣』から『父と子』へと岩波や新潮文庫で読み進む。二葉亭四迷の名も浮かぶ。いずれにせよ、あまり演説調なのは苦手なので、次はチェーホフである。
19世紀の作家達の特徴だろうか、あらゆる事象があつかわれ、多彩な人物達が登場し、そのポートレイトが詳しく描かれる。政治的な制約だろうか、デカブリストの反乱(1825年)などちらっと出てくるが決して深くは触れられない。だが、時代の必然的な流れは人々の具体的な行動をとおしてしっかりと描かれてゆく。気だるい田舎貴族の生活と、新時代を切り開こうとする野心的な雑階級の青年達と。芸術的に描き出されたロシアの年代記、換言すれば主人公達を通して生きた社会科学が彼方に見える。ロシア史を深く学ぶという楽しみも浮かぶ。そういえばフランスとロシアのことどもは交錯(こうさく)することが多い。貴族達ははしばしでフランス語の表現を用いる。とても面白い。
これらの古典作家の名は書店の店頭でというよりも、実は小さい時に耳にしたラジオ放送によってすり込まれているものである。『赤毛のアン』からラ・ロシュフコーまで、昔はラジオが家の中心に置かれていて、朗読の時間はとりわけ耳をそばだてて聞き込んだものである。しかし、こちらの理解力も幼かったのか、これらの作品の多くは放送波に忠実に載っていたはずだが、内容はさっぱり覚えていない。時宜(じぎ)を得たというべきか、旧字体のままの復刊本などは、ラジオ全盛期の想い出まで机上に届けてくれる。
国際比較で話題の「読解力」は読書力そのものではないという。しかし、楽しみの読書と専門家[専門家たらんとする訓練も含む]としての精読とは、いずれも読解力の基礎であることは間違いあるまい。やや性急かもしれないが結論を先取りすれば、読解力=読書力+ディベート力そしてその彼方に文章力ってことだろうか?
ともかく名著の復刊を切に望む。また、新潮世界文学や筑摩世界文学大系など、行き届いた全集本が今一度親しみやすい形で手に入るようにして欲しい。古典書籍は市民の文化財そのものだ。

2 件のコメント:

  1. セントポール君2010年4月14日 16:02

     初コメントします。先生のおっしゃるように古典は大切だと思います。社会人の方だと必要ないと思われるかもしれませんが,現代の社会システムや理論に脈々と流れる古典のエッセンスは否定し難いでしょう。私は,必要に迫られてヴェーバーからシュンペーター,国内では山田盛太郎の著作や商業学の論文までを読んでいます。ほぼ同時代の研究者の論文を読んでいると意外に日本の経済政策(意外にも当時にも現代にも見られる)にリンクしていて興味深いものでした。
     東京に来て各大学図書館の所蔵数に驚嘆しましたが,地方大学も厳しい予算かと思いますが充実させていってほしいです。

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  2. 久しぶりにコメントさせていただきます。
    私はあまり古典を読んだことがありませんでしたが、愛媛アカデメイアの活動を通じて、古典の魅力や隠された力を知り、最近は古典を読むようになりました。
    しかしそれを読んでも(考えても)分からないことが多く、「無知の知」を肌で感じております。
    さまざまなことを本当に「分かった」と言えるようになる為には、多くの学び・経験が必要なのだと思います。

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