公開講座は幸いにも大きく盛り上がった。
多彩な階層の方々が参加した。学生、院生、企業人、教員という枠組みである。
教員も学生・院生も、法文学部、教育学部、工学部、農学部、理学部など、とりどりだ。
講師のお話は、具体的で深い内容だった。おなじ先生から連続して充実したおはなしをうかがえる。幸せなことだ。まず、古典のテキストを引きつつ、コミュニケーション力の本質が講義される。最後に、就活において、企業側は面接でどのような戦略をこめて就業希望者に質問を行うかを、実際に模擬面接の姿で展開いただいた。実に参考になった。実験台にたって面接に臨んでくれた事務局員メンバーも堂々とこたえが出来ていた。私として、これまで客観的に対象化出来ていなかった色々な現象を、良い意味で突き放してみることが出来た。実に幸運な体験だった。
このラッキーさをもっと広く人々に知っていただきたい。
最近、専門職業人とは何かを考えている。タフに当該の専門領域で仕事をこなせることは、結論から言って専門職の必要条件である。
しかし、この一種の思い込みみたいな等式は完成形にむかう課程が省略されていて物足りない。
昔は豪傑が学問するのが理想だった。文武両道である。わたしのイメージが古くて、観念的だったということでしかない。さらに悪いことに、この理想型はわれと我が身には適用できない。実際には自分は神経質であり、調子がとりにくい人間である。食欲も細く、持久力もそれほどない。だから、強健な人物が一途に目標に向かって励むというスキームはどうも自分には適していないようであり、第一この理解は浅薄(せんぱく)かつ皮相である。
肝心なことは自分がそんなにタフな人間ではないことを発見したことにあるのではない。そうした虚弱なタイプの人間でも、長期戦を耐え抜き大きな仕事を成し遂げ得る場合もあるだろう。だから、弱いタイプの人間がタフな仕事をどうこなせるのか、問題はそう据えなおされなければならない。
問題をようやく正確に自分に即して掴むことが出来たのは、だいぶ歳を食ってからだった。
より普遍的に考えれば、人間として好不調があるのは当たり前。場合によっては、今みたいに悪天候の中で、タフだと自負している人も、免疫力が落ちてゆくことがあるかも知れない。
だから、波がある人間として[波があることが悪いのではなく、波があってもある程度のところに収めうるか]いかに調子を揃(そろ)えることが出来るかであろう。こちらが数学でいえば一般解への道に近い感じだ。
タフな仕事を一直線にタフにこなすことができれば、それこそ、赤飯で祝えばよろしい。だが、祝祭日の様な状況を経験することは長い人生のなかではほんの瞬間的にすぎないのではないか。
しかし、調子も悪く、なにもかもうまく行かない時はどうなる。目標が過大ならそれを引き下げる。目標を堅持したければ、アプローチの仕方を改善する。だが、いずれにせよ、持久戦であり、勤勉さをすべてのプロセスは要求していないか。
目標の堅持のためにはスキルが要求される。そのレベルはどの程度なのか?それを冷静に計ることが大人への第一歩なのかもしれない。自分にとって無理なことは無理、がんばれば出来るだろうということはなに、そうした冷静な自己の対象化が必要だ。理想はいい。だが理想状態に我が身をおくための最低必要条件は何なのか。要求水準のスキルは寝ていても出来るくらい十分に身に付けるべきだろう。考えていなくても手が動く状態である。
プロフェッショナルとは?という問いかけが盛んである。それは、熟練、目標への到達、それとぶれない社会性であろう。熟練、目標への到達が破壊的であり、社会的に是認されない内容ならば、熟達といっても余り意味をもたない。
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