単行本をようやく出版するところまで漕ぎ着けた。
フランスに興味を持ったのは70年代の初頭のことである。当時の状況に即して言えば、フランスの現状について政治学的な分析対象と考え、これに関心を抱いたわけである。大学院の単位をとり終えた頃のことであった。
当時の院は修士号はとるものの博士課程は研究者などへの助走期間と捉えられ、運が良ければポストに在学中でもありつけた。もちろん自分の場合は不幸な偶然が重なって、ことごとくポストへの可能性は閉ざされた。まず第一に大学紛争の真っ盛りで、しかも私学の拡張期に陰りが差していた。第二に、基礎研究を色付け発展させ、いわばプロの研究者として持久戦をもちこたえる知的な資源がそもそも自身に蓄積されておらず、困難な中で書き続ける力量に欠けていた。第三に、人付き合いがあまりうまくなかった等々である。
学問的にも、私は、モダンでもなく、古典的でもなかった。つまり中途半端だったのである。それでも励まして下さった沢山の方々がいたことは、ここで銘記しておきたい。頭だけ熱くなっていて、手は動いていないというのが当時の私の姿だった。かくあるべしというのと、具体的に自分が今の今出来ることとはまあ、違うのが当たり前だが、なるべくそこのところは手と足を使って[おまけに人様には偉そうにせず、こうべを垂れて]妥協しなければならないであろう。つまり、「手」[五体と]や声なんかを動かす習熟の側面を軽視していたのである。研究も有る意味では自動的なくらい原稿が打てなければ駄目なのであろう[決して今の私がその段階に達しているなどは申せません、まだまだ修業が足りない]。あくまで理想論としてであるが…。
さて、それからフランス語の学習に集中した。ま、その話は長くなるので別の機会に。とにかく苦労の多い手仕事[地域研究、外国政治研究]に入り込むことになる。遅い出発である。
そうこうしている内に幸いにもフランス政府給費留学生のテストに合格した。このサン・ギヨーム街に面しているパリ・政治学院に留学中に、フランス分権化改革を攻略してみようと思いついた。フランス政府は、給費留学生であった私たちの最低生活はきっちりと保障してくれた。もちろん贅沢など出来る額ではなかった。それでもきちんと給費の他に住宅手当までつけてくれるのには驚いた。住居はパリ市内の南側に展開するシテ・ユニヴェルジテールの西サイド、オルレアン門の側にあるローザ・アブルー館であった。
丁度ミッテラン氏のもとで大規模な地方分権化改革が進行中であったし、制度論は一応押さえるとしても問題はその内実を政治社会学の方法論で理解できないかという研究上のアイデアである。ゼミではいろいろと調べては発表させられた。政治史の教授がニュー・メディア論をゼミのテーマにしていた。留学生いじめもあるあまり感じの良い教員ではなかったが、きっと学生達の就職対策なのだろう。その柔軟さには驚く。学友達が資料調査に行ったというのを聞きつけて、セーヌ沿いのケ・ボルテール街にあるドキュモンタシオン・フランセーズに行く。この政府刊行センターの出版物にはいまだにご厄介になっている。
*パリ第一大学[ソルボンヌ]裏のたたずまい。坂を下れば
カルチエ・ラタン、そしてセーヌである。当時はよく出入り
していた。今はテロ対策だろうか、出入りには厳重に職員証
などの提示が求められ、外部のわれわれは駄目。
目指す文献が沢山あってほっとした。また今とは違って大出版社のPUF[ピュフ]も販売店をソルボンヌの真ん前に大きく構えていて、使いにくい図書館なんかよりよっぽど書棚は開放的で、知的に充実していた。政治学院の真ん前の書店[文字通り、政治学書院と看板が立っていた]も充実していて、指導教授のジョルジュ・ラボー先生も若い頃から入り浸っていたという。おかみが親切で、こちらがぼつぼつと主題をいうとあああれねと地下から直ちに探してもってきてくれる。この書店もいまじゃ単なるテキストを売るカウンターだけのものに身を落としてしまった(2003年にこの事実を確認)。きっと学生がわざわざ本を買ってまで読まないのであろう。PUFもつぶれた。
*シテ・ユニヴェルジテールの中央館[サントル]、
古く見えるが1930年代の作品。この庭園の西端に我々の館が。
84年の10月に帰国。その後、非常勤講師で食いつなぐという生活は続いたが、パリで経験したカルチャーショックを大事にしようと思った。関連文献を自費で買い続けた。
古く見えるが1930年代の作品。この庭園の西端に我々の館が。
84年の10月に帰国。その後、非常勤講師で食いつなぐという生活は続いたが、パリで経験したカルチャーショックを大事にしようと思った。関連文献を自費で買い続けた。
90年から静岡の短期大学に勤務し始めた。まだまだどこをどう突けば良いのか、五里霧中だった。さて、1991年はじめから具体的にフランスの地方分権化について、論考を発表し始めた(ようやっと書き始めた)。市町村の首長職を上下両院の議員や大臣が兼任しているという極めてフランス的な現象に注目した。最初はその論点だけで論文を書いた。それはそれで良かったと思う。しかし、やがてこの論点だけでは十分に議論が展開できないという壁にぶつかり、再び、論述の方途が見えなくなった。
なだらかな道ではなかった。それに途中でフランス政治の破綻ぶりにも嫌気が差した(政治的正統性は政治腐敗によって切り刻まれて行く)。90年代初頭のパーソナル・コンピュータの普及、90年代半ば以降のインターネットの導入など、情報化につよい興味を抱いた。これは現に目に見える効用として、教育研究に恩恵をもたらしつつあった。だから、まだ未開拓の分野である文系教育研究分野への情報技術の適用を夢見たのである。この構想は、結局は高速回線の普及と端末機器の量産・低廉化によってまもなく現実のものになる。
次第に情報化社会の問題性も明らかになる。
ともかく勉強のし直しというなかで、イヴ・メニイ教授の『共和国の腐敗』を全訳してみようと考えた。文章はレトリックに満ちていて、良く言えば文学的、悪く言えば故意に文脈が飛ばされていて、意味をしっかりつかむのに苦労した。しかし、全体の翻訳をする中で沢山のそれまで見落としてきた論点を学ぶことが出来た。ル・サウット、サドラン、ドゥマイユらのメニイやマビローといった大家を継ぐ研究者たちの知見にも新鮮な思いで接した。本当に多くのことを学ばせてもらった。