2010年2月22日月曜日

遍路と巡礼その2


大革命と共和制:非宗教性の原理

 フランスは我が国の近代化にも重要な影響を及ぼしている。中規模の国ながら、実際に国際的な影響力は無視できない。しかもその栄光と影響力とは一重に歴史都市としてのパリによっていると申しても過言ではない。分権化理論の信奉者とて事実の問題は無視しえない。パリの歴史性を確保している重心の部分にカトリシズムあることはこれまた否定しえない事実である。
  アメリカによる支援と育成のもとに生き延びておきながら、日本人の大半は根本的には西欧、特に独仏に心を寄せていたというのが不思議な戦後の精神世界だった。
 ドイツは東西に分割され、敗戦でひどく打撃を受けた。政治的にレジスタンスなどで戦勝国の側に立ったフランスは、欧州大陸の西半分を代表する国家として、戦後は常にアメリカ中心のグローバリズムに叛旗を翻してきた。今日の大EUは実にドイツの経済力をバックにしたフランスの政治外交力の産物である。
 17世紀における30年戦争の終結によりウエストファリア条約[Peace of Westphalia, 1648年]の名で知られる西欧国際政治体制を確立し、ブルボン王朝は大陸での指導権を手にする[ハプスブルクの相対的な後退であり、イギリスは局外にたちつつ植民地の拡張に注力する]。17-18世紀、フランスのヴェルサイユ宮は欧州外交の中心となる。各国の宮廷は競ってフランス風に染まった。
 同時に数百年を費やして作り上げられていたノートルダム大聖堂[1163-1345]は更に意匠をこらし、カトリック・バチカンの出城として、パリの中心部で繁栄を極める。ブルボン王朝はハプスブルクと並んびたち、やがて近世にいたるとそれをしのぐ大国として振る舞い、カトリックの西欧における守護者として自ら任じ、王族のためにその他の数々の立派なカテドラルが造営される。
 今日でも、フランスのアメリカニズムへの異論には、欧州国民(英国はフランスにやや距離をとっているが)や第三世界の人々はこれを支持することが多い。ユネスコをはじめ国際舞台では今でも主要な公用語は英仏両語なのである。フランス人の反アメリカ感情の背景には失われた栄光の帝国への憧憬と、アングロサクソン世界に閉塞したイギリス国教会やアメリカ清教徒への異端排除の意識、あるいは微妙な「違和感」があるといえば言い過ぎだろうか。
 フランス革命は貴族・王族の支配の完全否定にまで激化し、われわれ日本人には想像が及ばないのだが、カトリック教会への大量略奪や迫害が一般化する。王権と癒着したローマン・カトリック教会の旧体制における政治権力との癒着と領域と精神面での支配は、日々の労働の成果をうばってゆく不合理な身分体制への憎悪と不満とを共ながらに人々の中に蓄積させたのであった。
 人権宣言にもあるように、思想信条宗教的な自由が宣言され、共和制の国家はいずれの宗教にも加担しないことを宣言し、「非宗教性」が共和国の基本原理となる[i]
      *ランス大聖堂のファサード(正面)、盛んに修復工事が行われていた

 今回の調査(20091月)では、ランス-パリ-モンサンミシェルと廻って、レンヌ[ブルターニュ半島の主要都市]から長駆TGVでリオンへ、そこからややローカルな線でディジョンにまで北上した。最後の大南下の旅程は、ざっと6時間ほどの高速鉄道の旅であった。ディジョンでも古い寺院の見学をブルゴーニュ大学の知人の案内ではたせた。翌日は、ブルゴーニュ大学法学部長が昼食会を組織してくださった。その際に、いまなぜ「遍路と巡礼」かという根本的な疑問が相手側から出された。上記の共和制原理としての非宗教性を論拠とするものであった。内田九州男教授が主として答えられて、私がささやかな翻訳をさせていただいたが、実際、録音をしておけば良かったという堂々たるやりとりであった。
 人は生と死の問題から逃れられない。その場合、聖地をめぐる、あるいは聖地を目指すあるいは巡礼路をたどる旅は、魂の清めという感覚を覚醒させる。政治体制とはかかわらない、更には宗教宗派には関わらない、人間の根源的な存在の意味をといかける行為である云々という国際的に通じる骨太の論点であった。フランス側の応答は、巡礼ということは良く知られたことではあるが、現代の私たちには何よりも健康のためのトレッキング、スポーツとしての歩きというイメージが強いとのことだった。共和主義にこだわる学部長は、社会生活の基盤を規律している〈非宗教性〉原理を強調し、その合理性を指摘したがっている風だった。


[i] Rapport au Présient de la République, Laïcité et République, Commission présidée par Bernard Stasi, La documentation française,2004. 特に同書、p.25以下。絶対主義フランスの国王はランスにおける聖人への儀式、地上における「神の副官」というイメージに繋がれ、カトリック教会と国家の関係は、当然ながらフランス王国における臣民すべてに適用された。革命の指針となった人権宣言は、第十条において、「なんびとも法律によって確立された公共秩序を乱さない限りにおいて、自らの宗教、信条の表明につき妨げられることなし」と規定している。国家の非宗教性が闡明せられたのである。

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