2012年2月20日月曜日

画一性と独創性またはフォーディズムと人間の個性

教育学部の社会科教室が開いている卒業論文の発表会をうっかりしていて、慌てて会場に走ってゆく。あらかた終わりに近くなっており、最後のお二人の報告だけ聴くことが出来た。
最後の報告で、情報化社会による人間の画一化と動物化についての議論があり、内容的にも面白く思った。
報告では、東 浩紀氏のネット上の論説(「情報自由論」)が引かれていた。「私たちは、いま、世界中でコカコーラを飲み、マクドナルドを利用し、ディズニーアニメをたのしみ、マイクロソフトのOSを起動しているが、この画一的な市場は云々」として、商品と快楽の条件反射状態をユビキタス化した情報ネットが猛烈に促進し、あなたが欲しくてたまらないものはこれこれでしょうと、消費行動が先回り的に解析されプロモートされ、自らのじっくりした判断などはおいてけぼりになる。そこに「漠然とした居心地の悪さ」の原因があると著者は指摘するわけである(卒業論文レジュメの引用文によっている、念のため)。
社会情報論に興味があった関係から、大筋の批判的論調は理解できるのだが、やや前提としている論点に引っ掛かりを覚えた。
というのは、ICTなるものはそもそもが定型的な手順を機械が代行してくれることを目的としてるが、その際、「人間はむしろ楽になった分だけ、創造的な仕事に打ち込める様になる」といううたい文句で推進されたのではなかったか(どうも偉い人たちの公約違反には私たちは寛容になってしまっているかもしれないが)。政策当事者も有力メーカーもただ利便性を訴えてきただけではない。そこには、自由な時間の拡大=個性の伸張という仕掛けがあったわけである。
たとえば、さらなる利便性を追って、タブレット型の大小のコンピュータが大はやりとなっている。電話通信と巧妙に融合がはかられ、機器の人気に売る側は大喜びである。
しかしその裏で、キーボードを使って高速タイピングが出来ない若者が大量に生まれつつある。タブレットの下に出てくるキーボードではかちゃかちゃ長文を打つのは難しい。
明らかにデザイン優先の見かけの利便性による人間の能力の貧困化が目前で進行している。双方向性をうたうシステムや回線が、じつは圧倒的な情報量をもつ販売企業にハイジャックされているのである。
人々は忙しいし、長文の論説に追いつけなくなっており、合衆国の大統領も含めて何事もワンフレーズで事を済まそうとしている。商品の純粋な買い手たるネット消費者になろうとしているのである。
しかし、年寄りの愚痴ではないかとの会場からのコメントもあったが、果たしてそうか。東氏の先駆的な論説も、省察しつつ批判的に読み取る必要があるのではないか。
例えば、東氏の議論の前提において、「世界中でコカコーラを飲み、マクドナルドを利用し、ディズニーアニメをたのしみ、マイクロソフトのOSを起動」と言われるが、この思い込みは結構重大ではないのか。我々は、小論をたたき出す為にコンピュータの厄介にはなっているが、決して、超大量生産のハンバーグも口にしないし、アニメにも入れ込むつもりはないし、モータリゼーションにも最小限のおつきあいしかしていない。フォーディズム=モダニズムの等式が、完全な相互包摂の関係にはないのではないかということである。
地域の文化や経済は完全にフォーディズムやグローバル化に呑み込まれつくして居るわけではない。
チャップリンを想いだすが、人間は強力な量産品の嵐のなかでも、個性をなお主張することを止めなかったのではなかったか?
フォーディズムの決定的な影響力は分かるが、そこから人々が「完全に画一的な生活」を営んでいると断定するのはややリアルではないと思うのである。(本論考は未完)
ルーブル美術館にて

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