2012年1月19日木曜日

冬の追憶

かねて学卒未就業のかたがたへの支援を行っている。
大学側からの理解ある措置を得て、教室の一角をお借りしての6ヶ月余りにたっする支援活動である。厚生労働省系の支援事業への参画である。私たちの第一期の取組がようやく終わりに近づいた。昨日は客員の先生が来講されて、身辺も、ひととき華やぎをみせた。
来年度の事業継続への申し込みが始まっているので、書類をそろえ始める。粛々とすすむしかない。
とにかく若い世代をはじめ人々の就業構造を改善しなければならない。仕事、休養、育児、健康、スポーツなど文化的活動、コミュニティ作りなどなど、仕事ばかりかライフサイクル全般にわたって風格ある先進社会を日本に築く覚悟が必要だろう。

さて、このところ寒波が長く続き、またその上、氷雨となる。
松山もしばらくはまったくパリの冬空みたいであった。
ここからは『過去と追憶』編である。
83年初頭の冬だったか、この年はブラームスの生誕150年にあたっていた。FM局のフランス・ミュージックが連日、巨匠の作品を流している。シテ・ユニヴェルジテールの自室では、それをあかず聴いていた。
この都の冬の朝はまっくらで、キャフェは電灯をともして営業している。一時間目の大学院の授業など、とにかく8時台にはじまるので、宿舎に近いポルト・ドルレオンのキャフェでクロワッサンとキャフェ・クレム[フランス風ミルクコーヒーだが、余りうまいという印象がない、偏見かもしれない]をのみ込んで、地下鉄でサンジェルマン・デプレにゆき、それから政治学院にむかって走ってゆく。
パリ政治学院Institut d'Etudes Politiques de Parisは、第三共和制期に政治学自由学校Ecole Libre de Science Politiqueとして設立された。それ故、建物にはあまり歴史的な価値がないといわれているが、一般の街かどに高等教育機関がすっぽり入っているのは、日本では余り見られない光景であった。サンギヨーム街に正門があるので、この町筋はシアンスポ[俗称]の代名詞として使われる。官僚・政治家・企業管理者・研究者志望のものが集まる一大結節点である。
決まって朝はそのうえ雨が降る。嫌になるが仕方がない。午後からは、あくまで重く厚い鉛色の雲が偏西風にのって東の方にゆっくり流れてゆく。大嵐になることはめったにないが、参ることこのうえない。夕方のひとときのみ、厚い雲の西端が切れて、ばら色の陽光が斜めにさしかかる。レンブラントだろうか、泰西名画にある厚い雲の切れ目から注ぐ光の束が、なるほどなあと、ほんの短い時間めのまえに繰り広げられる。
パリでは僅かでも晴れるからまだましだと、誰かが、ため息交じりに言っていた。冬の方がヴァカンスが必要だし、旅の爽快感が感じられる。
パリ/サンジェルマン=デプレ教会も夕日に染まる。
2009年遍路と巡礼国際調査から
午後、時間がある時は、ルモンド紙を読んだり、古いキャノンの一眼レフカメラをもってモンスリ公園を歩いたりする。庭園はゆっくりした傾斜で北のパリ市内に下ってゆく。大規模なジャンクションであるダンフェール・ロシュロ駅(何本かの地下鉄線が交叉し、RER[エール・ウ・エール=パリ・レジオン高速鉄道網B号線]などの乗換駅である)が見えているし、パリ天文台の標準経度線が走っている。そこから北はリュクサンブール公園をはじめ大パリの市街域が展開しているのである。
しばらくは日本には帰るまい。祖国のありかたをそれまでになく深く考えた。
パリは極寒。雪の大地にたつサンジャックの塔、
時間的にはランスから帰って、パリ探訪となった
2009年1月、パリで一泊して
東駅から日帰りでランスReimsに向かう。
TGVと在来型電気機関車が並んでいる。
ランスへは新たな東幹線が高速でつないでくれる。

ランスReimsの大聖堂をかなたに見る。
晴れてはいるが厳しい寒さ。
右側のガラス張りの建物は、メディアテックである。
2009年遍路と巡礼国際調査から




パリ/ノートルダム寺院の東側内陣。
屋根の重量を分散させる効果を狙ってか、支柱の曲線がきれいだ。


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